『en-taxi』最新号のショーケンLIVEレビューに、

亀和田武は「68年の革命世代の、自分のしたことをいっさい後悔しない、反省なんて言葉は辞書からいっさい破り捨てた。勝ったの負けたのなんて、そんな野暮なことはいいっこなしだぜ、というテイストがカッコイイ」というような内容の一文を寄せていた。
最近、矢作俊彦の『ららら科学の子』の書評でも同内容のことを書いていたし、この持論、今彼の中でブームなのだろう。
ただ、団塊世代のこうした開き直り方には、あなた方、世代ごと青春やロマンが肯定されてた為に、自前で本気の自己懐疑をくぐってないだけじゃないの?と、正直「いい気なもんだなー」という感想を持ってしまうところも無くはない。


それよりも、丸谷才一による、阿佐田哲也『次郎長放浪記』の以下のような言葉に、天然でもなく時代的追い風とも無縁だった俺は、非常にぐっときたものだ。

このとき彼は、一流派の安易な末輩ではなくなって、その流派の発生状態を自分の心のなかで実際に試す者になる。といふのは、本場の浪漫主義の詩人だっていい気持で歌ったのではなく、現実との抵抗をさんざん味はひながらああいふ仕事をしたはずだからだ。そこで彼に課せられたのは、浪漫派の始源の精神状況を、浪漫派文学の決定的な衰頽のあとでたつた一人でいきてみるといふ、およそ勝ち目のないいくさだった。

自分はこんなみつともない、醜怪な存在だつたのかといふことに気がついて、困り果てながら、しかしさういふ自分を今さら改めるわけにはゆかないと妙に健気に居直ってゐる。いや、無理に居直つてゐるわけではなく、もともとかういふ自分で、それをちよいちよいと手直しする才覚などてんからないことを暗い気持で確認してゐる。その確認の仕方はまことに陰鬱なもので、偉いと言へば偉いし傍迷惑と言へば傍迷惑な印象を受ける。

丸谷氏というと、高圧的な文壇権力者というイメージばかりがゴシップ的に流通しているし、実際俺も文面ににじみ出た「ツラの皮の厚い」感じにかなり苦手意識があるのだが、この解説はさすがに鋭いと思った。