矢崎泰久「「心臓破裂」で急逝した色川武大の知られざるエピソード」(「噂の真相」89年6月号)

●はじめに…

今年は正月早々に、天皇の死という異常な事件があったので、誰が死んでも、「あっ、そう」という遠い感じがしてしまう。ことに身近な人の場合は、悲しむ以前に、何故か無性に腹が立つのだ。岩手県一関市に引っ越したばかりの色川武大(阿佐田哲也)さんの訃報を知らされた時にも、私は大声で「バーロー」と叫んでしまった。「くだらない奴と同じ年に死ぬなんて、なんて甲斐性なしなんだろう」
博打うちが形成不利になると、よく使う手のひとつに、「死んでみせる」というのがある。相手に油断させ、ここ一発の大逆転を狙うわけだ。個人プレイだけでなく、競馬や競輪でも、この手はしばしば使われ、効果を発揮する。かけひきが存在するゲームでは、目標にされないということは、きわめて大切なことである。阿佐田哲也は、これの名人だった。もともと持病にナルコレプシーという眠り病があり、わかっていても、よく騙されてしまうのだった。
四月十日朝、入院先の宮城県瀬峰病院で心臓破裂で色川さんは亡くなった。心筋梗塞で倒れ、そこに運ばれたのが三日夜だから、ちょうど一週間目にあたる。普通、心臓系統の発作を起こした人は、四十八時間持ちこたえれば安全とされている。彼の場合も、六日には集中治療室から、一般病棟に移った。八日に個室が空き、月末までには退院できるという話だった。やれやれと安堵した矢先の出来事だった。何か、想像も出来ないテのいたずらでもしたのではあるまいか。
十五年前に大きな手術をして、それ以来色川さんは、いわゆる薬漬けの日々だった。最近は、イギリスの即効性特効薬を常用しており、これのおかげで「眠らなくなった」と言っていた。かなり高価な薬品で、副作用はないという。「一粒三百メートル」をもじって、「一粒三時間」なんて自慢したりしていた。確かに効き目はあったようだが、副作用がないというのは信じ難い。暑い季節でもないのにしきりに汗をかき、ひどい時には流れるようだった。いわゆる脂汗といった感じではあったが、今にして思うと、常に心臓に負担がかかっていたのだろう。

岡留安則編集長から、この原稿の執筆依頼があったとき、二つ返事で引き受けたのは、他の誰かが書くよりは私が書いた方がいいだろうと単純に思ったからだ。しかし、書き始めた直後に『噂の真相の真相』という別冊が送られてきて、これに眼を通したことが悪かった。「ゴシップ&ごしっぷギャラリー」を見て非常に不愉快になり、原稿が進まなくなってしまったのである。私は、基本的には言論表現の自由を大切にしているので、どんな卑劣な言論であっても、それを容認する立場を守っている。私に言わせれば、岡留さんは、いわば下品が活字を着て歩いているような人で、事実でないことでも記事にしてしまうようなところが多分にあると思っている。友達だろうが、義理のある人だろうが、お構いなしで、そこがいいと言えばいいところだが、節操無く片っ端からぶった斬ってしまうのである。たかが『噂の真相』と思うのだが、ついていない時に足を引っ張られるとカウンター・パンチになる。今回の別冊にしても、私や『話の特集』があちこちに登場して、その扱いはおおむね不快である。それにもかかわらず、原稿を書く約束をしてしまったからには書かねばならず、そんな自分にも酷く腹が立つ。かといって、あれはあれこれはこれ、とすっきり割り切るほどには、まだ私も枯れてはいない。『噂の真相の真相』という本は、ナルシスティックで、自画自賛のオンパレード、ゲロが出るほど気色悪いということだけでも、はっきり言っておきたい。作る奴も下品なら、面白がって読む奴も下品。前身の『マスコミ評論』にいた時から、岡留さんとは付き合いがあり、甘いと言われればその通りだろうが、彼のことを残念ながら、嫌いじゃない。ま、今更グズグズ言っても始まらないが、俺は、怒ってるんだぞ、いいか覚えてろ!

●色川夫婦のハザマで…

閉話休題(それはさておき)…
作家と編集者の関係というのは、たいてい隠微である。どうせ書くならさっさと書けばいいと思うのは、いわゆる素人考えで、これはどんなものを書くかということも関係してくるが、出来上がる作品にも大きな影響を与える。締切りギリギリになって、追い詰められて傑作が誕生したり、ついに穴が空いてシコリが残ったりすることもある。そこに、作家の女房というのが、たいてい編集者泣かせの存在なのだ。むろんいろいろなケースがあるので、一概には言えないが、色川武大の女房の場合は、幼馴染みで十五歳も年下ていとこ同士ときているから、ややこしかった。私が彼と知り合ったのと、ほぼ同じ時期に2人は世帯を持った。
孝子夫人は、なかなかチャーミングで愛らしい人だ。しかし、色川さん同様に、甘ったれで子供っぽい人だったから、家庭の中で仕事をしていると、面倒が起きることの方が多い。孝子さんからは、私がいじめて書かせているように見えただろうし、私は孝子さんが邪魔するので仕事が進まないと思い込んでいる。実際は、一番ずるいのは作家自身で、書きたくない気持ちを、誰かのセイにしてのらりくらりしている。
阿佐田哲也は『麻雀放浪記』という大ベストセラーをもっていて、一方、色川武大中央公論新人賞こそ若い頃に受賞していたが、ほとんど無名に近かった。久々で、本名の色川で小説を書きたいと言ったのは、彼の方であり、結婚直後に『話の特集』の連載「怪しい来客簿」がスタートする。約五年間というものは、色川さんはこれ一本に創作活動をしぼっていた。担当の女性編集者は、どちらかと言えば孝子さんと親しくなり、スーパーやらバーゲンやらに連日お供していた。原稿が出来上がるのを待って、私は押し掛け、印刷所に入れると同時に、阿佐田哲也と私は麻雀のメンバーを集め、徹夜マージャンを開始するのだった。
ウンウン唸って原稿を書いていた色川さんは、パッと阿佐田さんに早変り、博打世界に飛び込む。新婚間もない孝子さんにとっては、私は憎き奴だっただろう。注文の多い阿佐田哲也が働かなくては、当然のことながら家計は維持できない。金にならない方の色川武大が、何日もかかって原稿を書き、やっと出来上がるとマージャンでは、恨まれない方がおかしい。
やがて『怪しい来客簿』が泉鏡花文学賞を受け、直木賞にノミネートされ、色川さんも忙しくなる。翌年『離婚』で直木賞を受けるが、この作品は、孝子さんとの離婚話を滑稽譚ふうに描いたもので、現実には私はトラブルに巻き込まれて、笑っていられなかった。この夫婦の「別れる」「別れない」の続きは、結局、色川さんが死ぬまで続いたわけだが、私はそれにずっと付き合ってきた。
阿佐田哲也の仕事は減ったが、色川武大が忙しくなった。たが、原稿料のランクでは、阿佐田さんの方が上で、どちらかと言えば純文学(こんな奇妙なジャンルわけは日本しかないが)の色川さんは、内容や仕事のきつさに比較して収入は少なかった。しかも、ご本人は遊び好きときている。博打、ジャズ、酒と交友、食道楽など、金もかかるし、時間もかかる。映画は暗くなるとたちまち眠ってしまうので、一時はほとんど観なかったが、ビデオが出来て、彼は驚喜した。ついでレーザーディスクが登場し、CDが発売される。あげくには、これは趣味ではないのだが、病気が襲ってくる。身体がいくつあっても足りない。孝子さんは、極度の近眼で趣味も少なかった。それでも、ふらふらしている亭主のために、料理をこしらえては無駄にしていた。
そのうち、私は、孝子さんだけでなく、他の出版社の編集者からも、蛇蝎の如く嫌われるようになる。二人で博打に狂うと、一週間から十日ぐらいは、行方不明になってしまうことが再々だったからである。「それでも、あなたは編集者なんですか」と面と向かって私に食ってかかった人もいたが、私だけの責任ではないので、平然としていた。留守を守っている孝子さんにすれば、さぞや被害は甚大だっただろう。
色川さんには、若い女性のファンが多かった。風貌や体型から安心されていたのかもしれないが、私のところを辞めた編集者の中には、後に色川さんの秘書になった女性もいたくらいだ。私が市民運動にのめり込んだ時期には、ほとんど博打から縁を切ったため、阿佐田さんは「不便だねぇ」とこぼしながらもホッとしていたのかも知れない。もっとも、私と博打をやらないからといって、彼が博打を控えたという形跡はまったくない。健康状態が悪化しなければ、時間と金が許す限り遊んでいたのである。
彼が溺愛した秘書に、アンという美しい女性がいて、彼女と二人で、ヨーロッパのカジノ巡りをしたり、エジプトに取材旅行に出かけたりした。こうした、家庭争議のタネになりそうなことでも、したければするというところがあったし、ひところは年末になると、海外の賭博場に出かけて、かなり大きなバカラをやったりしていた。70年代後半から80年代にかけては、仕事と遊びのバランスがもっともとれていた時期だったのだろう。
博打のことを、もう少しだけ詳しく書いておこう。勝った時に、勝った勝ったとあちこちに触れ歩くことを、この世界では、「うたう」という。阿佐田さんは「うたう」奴が嫌いだった。だから、私はしばしば嫌われた。畑正憲さんについても、同じ理由で嫌っていた。だが、実は、阿佐田さんも巧みに「うたう」のだった。滅多に勝たないという欠陥もあったが、勝つとさり気ない会話の中で、ツルリと「うたう」のだった。つまり、そこで相手を感心させてしまう。一種の伝説が出来たくらいに、阿佐田哲也は天才だ神様だ、というイメージを強くしたのはこのテクニックによるものだった。
彼が好んだ種目は、①麻雀②競輪③手本引き④バカラ⑤ポーカー⑥ブラック・ジャック⑦丁半⑧チンチロリン⑨競馬ーといった順だったように思う。しかし、博打好きというものは、どんなものでも、賭の対象になればたちまち賭けるという傾向が強い。相撲に行けば一つ一つ取組に賭け、面倒になるとジャンケンや電話帳のページめくりまでやる。疲れて、喫茶店に入ると、次に入ってくるのが男か女か何人かで賭け、五時間もいたことがある。私はのらなかったが、二年前には、60歳以下の有名人のリストを作り、誰が死ぬかを賭けたりしていたらしい。

 

色川武大作品の舞台裏事情

阿佐田哲也には、ピカレスク小説の金字塔的な作品『麻雀放浪記』があるが、色川武大には、三つの流れが完成を見ないまま残されたという印象が強い。『黒い布』(中央公論新人賞)『生家へ』『百』(川端康成賞)などの自分と父親との葛藤などをテーマにした作品群。『怪しい来客簿』(泉鏡花賞)『狂人日記』(読売文学賞)などの異次元世界を扱ったサイケデリックな作品群。そして、伝記ものとも、人情ものとも、奇人ものとも、様々な角度で受けとめられる、特異人間シリーズといった『唄えば天国ジャズソング』『花のさかりは地下道で』『あちゃらかぱいっ』のような作品群。これらを横の線でつなぐような作品を最近は考えていたようである。
時代小説にも関心があって、落ち着き次第今年中に、「御仲十(みなかはりつけ)」というペンネームで書き始めると話していた。どうせ、みんなはりつけ、というブラック・ジョーク的なもじりだろう。「三百年生きるとして、三十年にひとつ小説を書けば、十作は出来る」と語っていたことからは、六十年で生涯を閉じたのだから、自信作はニ編だったのだろうか。それが、どれとどれかは、私には見当もつかないが…。
最後の作品となった『狂人日記』について触れておくと、構想は20年以上も前から温めていたもので、『怪しい来客簿』に取り掛かる時に、どちらにしようか迷っていた。非日常の別世界を持った主人公が、同時進行の生活空間のなかで、さまざまな体験をする。実際に、色川さん自身が、ふいに、「あ、こんなところに来ちゃだめだ。また、そんなとこに顔を出して」などと、うわごととも戯れ言ともつかないことを、口走ることがあった。非日常の世界から時々やってくる人は、コビトに姿を変えて現れるらしい。私たちには見えないが、彼だけにははっきり見えているらしかった。こういう時の色川さんは、どこか鬼気迫るといったところがあった。むろん風貌のせいもあっただろう。しかし、なかなか真実味があって、私は背筋が寒々とすることが、稀にだが、あった。
色川武大の名前で新人賞をとり、『怪しい来客簿』で復活させ、『狂人日記』を上梓した時点で墓に入ってしまったということは、それなりに筋が通っている。その意味では、色川武大は多くの天才がそうであるように、未完のままで、終焉を迎えたと考えてもよさそうである。思い残したことが多かったのは、むしろ阿佐田哲也の方だったのではないだろうか。
彼は、友人に電話するとき、絶対と言ってよいくらい「阿佐田です」と名乗った。麻雀のメンバーを集めるから、阿佐田を使うというのではない。色川武大を名乗った方が自然なときでも、阿佐田を使っていた。言い易かったこともあるかもしれないが、原稿や著書に署名するとき以外は、本名は使うまいと決めていたように思う。たぶんペンネームの方が何かと気楽だったに違いない。本名に対するテレというのが、彼の場合はごく自然にわかるような気がするのである。

阿佐田哲也との出会い

二十一年ほど前になるが、阿佐田さんと私は、市ヶ谷にある大日本印刷の出張校正室が並んでいる廊下でバッタリ出会った。むろん初対面であったが、すでに『週刊大衆』に長期連載された『麻雀放浪記』が双葉社から刊行され、ベストセラーになっていた頃である。その影響もあって、当時はちょっとした麻雀ブームが起きていた。『近代麻雀』を始めとした専門誌が続々創刊され、一般の週刊誌にも麻雀のページが登場するようになった。阿佐田哲也が観戦記を担当する『週刊ポスト』の「有名人マージャン大会」も大評判だった。だから、私は顔も存じ上げていたし、当然のことだが、『麻雀放浪記』はすでに読んでいた。
目の前に、その阿佐田さんが立っている。
大きな眼をギョロギョロさせて、仁王像のように、狭い廊下の真ん中に巨体を据えているのだった。私はうろたえた。挨拶をしたものかどうか迷ったのである。それは一瞬のことだったかも知れないが、ひどく長い時間だったようにも感じられた。禿げ上がった額、肩にかかるような長い髪、せり出した腹。どう見ても50歳は超えている威風堂々たる構えだった。と、クルリと彼は踵を返して、去って行ったのである。私は取り残された後も、しばらくその場に立ちつくしていた。
気押されたとしか思えなかった。何故挨拶しなかったのかが悔やまれた。どこかの校正室にいるに違いないが、今更そこへ押しかけて行くのも妙なものである。いっぱしの博打うちと自認している私は、あまりの不甲斐なさに、落ち込んでしまった。思えば、阿佐田さんは、その時、まだ39歳だったのだ。
それから半年ほど経った後のある日、今は故人の寺山修司さんから、やはり故人になられた五味康祐さん宅で時々開かれているポーカーに誘われた。そこに、あの阿佐田哲也さんがいた。
「えっ、初対面なの?」と五味さんが、驚いたといった感じで、二人を紹介してくれた。寺山さんは、例によって何時の間にか消え、深夜になって、私が持ち金をすべて失って帰ろうとすると、阿佐田さんが声をかけた。
「いつぞやはどうも。あの時、メンバーを探していたんですよ。で、話の特集の部屋へ行けばいらっしゃるだろうと。そしたら、廊下で会っちゃったんで、タイミングも悪くなって、それに博打で知り合いたくないという気持ちもあってね」と言う。私は非礼を詫び、食事の約束をして、その日は別れた。
ゆっくり会って話してみると、共通の友人や知人が沢山いて、今まで会わなかった方が不思議なくらいだった。仕事の話が決まると二人とも、早速、麻雀の手合わせをしたくなった。一緒に食事をしていた孝子夫人を連れて、赤坂『乃なみ』へ向かった。運良く、吉行淳之介さんがみえていて、ママの話では五木寛之さんの居場所がわかるという。阿佐田さんも、私も、このお二人とは、時々卓を囲んでいた。その意味では、初戦はいいメンバーで遊ぶことが出来た。五味さんが言ったように、これまで会わなかったことが不思議だったように、それからは、しょっちゅう会うようになったのである。われわれの仕事と遊びの両刀使いが、かくして軌道に乗ったわけである。

●眠るような穏やかな死

吉行和子さんから長谷川きよしさんを経由して、色川さんの死が私に知らされてきたのは、午後一時過ぎだった。万一の時には、真先に知らせてくれるように頼んでおいたのだが、孝子さんからは、ついに連絡がないままだった。まだ、嫌ったり、憎んだりしているとしたら、お門違いだと、腹が立った。
上野駅に直行して、15時44分発の東北新幹線に乗った。古川駅で下車して、タクシーで瀬峰病院へ向かう。やはり、行き違いになってしまった。遺体は一関へ。そのままタクシーを乗り継いで、私も一関に向かった。かなりの道のりだった。日暮れた山道は起伏ばかりが多く、気が滅入った。一週間前に、この同じ道を、逆に辿って、救急車で運ばれた友人を思い、不憫でならなかった。
一関の新しい住まいは、思ったよりずっと立派だった。「庵のようなものを構える」と言っていたので、騙されたような気がした。恐る恐る死顔を覗き込む。想像とは反対に、眠るような穏やかなものだった。悲しい気持ちの横に、ああ良かった、という安堵感が湧いてきた。変な表現かも知れないが、素敵な死顔であった。
深沢七郎さんが亡くなった時に、『話の特集』で追悼座談会をやった。出席者は色川さん、野坂昭如さん、尾辻克彦さんの三氏であった。この中で、色川さんは、死についていろいろ語っている。その最後の部分は、暗示的でもあるので、紹介しておこう。
野坂「ここのところたくさんの人がお亡くなりになったけれども、僕らの方から見て、一番納得の出来る死というのはやっぱり深沢七郎です」
色川「ああ」
野坂「深沢七郎がああいう風にうまく死んでくれたから、俺たちも多分うまく死ねるんじゃないかっていう感じがしないこともない」
色川「俺はやっぱり駄目だと思うけどね。ああいう風に死ねたらっていうのはあるね」
野坂「やっぱりその為には小説書かなくちゃ駄目なんでしょう。ちゃんと小説書いてりゃきれいに死ねる。そりゃまあ自殺も悪くはないけど(笑)」
(『深沢七郎ライブ』話の特集刊・所載)
色川さんの死顔を見た瞬間に、私は、色川武大は間違いなく、立派に死んだのだと思った。死ぬ用意すらしていた様子が窺えるのだった。ただ、阿佐田哲也は、一緒に死んではいないのではないか。まだ充分に未練を残していて、どこかを彷徨い続けているのではないか。そう思えてならなかった。
親しい友人を、遊びを、楽しみを、あれほど沢山持っていた人が、そう簡単にあの世に行ってしまうわけはない。一関に移ったのもジャズ喫茶『ベイシー』の菅原昭二さんがいたからで、親身になって面倒を見ていた。新居に残された数々の遺品にしても、散らさずに大切に保存するつもりなら、とりあえず菅原さんにお願いするしかないだろう。
一癖も二癖もあるしぶとくしたたかな仲間たちが、阿佐田さんの周囲には大勢いる。思いつくままに挙げるならば、大滝譲司、長戸裕之、中村とうよう和田誠小沢昭一永六輔矢野誠一、、畑正憲、福田陽一郎、樋口修吉黒鉄ヒロシ井上陽水安部譲二長友啓典景山民夫谷恒生伊集院静、麻雀新撰組、ジャズプレイヤー、ボードビリアン、将棋指し、碁打ち、相撲取り、そして女友達などなどまだまだ数えきれないくらいの方々がいる。この人たちなら、いつまでも阿佐田哲也を忘れたりはしない。
通夜でも葬儀でも、共通の悪友たちは、口を揃えて「メンツが不足して、すぐに矢崎を呼ぶに違いない」と私を冷やかすのだった。だが、私は、そうは思わない。なぜならば、阿佐田哲也は、まだ、私たちの身近にいて、茶目っ気たっぷりに、気が向くと誰かにひょいと乗り移って、突然眠らせてしまったりするだろう。博打の場が立てば、のこのこ出かけてきて、手の内を覗いてそそのかしたりもするだろう。まだまだ遊び足りなかった分を、しっかり取り返してから、永遠の眠りに就くつもりに違いないのだ。
なにしろ「死んでみせる」ことにかけては彼の右に出る者は今のところまずいない。ハナの差で馬券を外したり、思いがけない大きな手に振り込んだりしたら、阿佐田さんが近くにいて、ふとした悪戯をやっていると思うことにしよう。
(了)

(「噂の真相」89年6月号)