空が少しだけ高くなる文章


http://d.hatena.ne.jp/heimin/20080111/p1
平民新聞さんによる、「おいどん」のモノローグにご自身の体験談を絡めて語られている文章。
色川武大の『怪しい来客簿』を、ちょっとだけ思い出した。
(あるいは、坂口安吾の「救いがないこと、それ自体が文学のふるさとであります」を)
先日の、僕の「おいどん」についての文章http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20080111#p2を読まれた方には、是非合わせて読んでいただきたいと思いました。


僕自身は「ただ生きてるだけよ」という諦念や達観に振り切れた生き方なんて到底できない、俗っぽく生臭い人間だと思っているし、そうした自分の「残酷さに自覚的である」ことに徹することなどできはしない中途半端さをこそ、自覚し引き受けたいとも考える。
選択肢も努力の余地も、まだたっぷり残っている人間が、「救いのなさ」という結論に寄りかかり、生き延びていくことの業と果実とから目をそらすことも、また一つの欺瞞を生んでしまうから。


でも、「おいどん」はじめ松本零士作品の根本に流れる、無力や無常、救いのなさを、とても大切なものだと思うし、その上でなお語られることを、だからこそ信用できるとも思う。
「結果については後悔すまい」「明日のために今日も寝る」という楽天性は、きっと受け入れられる、明日は必ずあるという現実的な勝算から生まれているものじゃない。
全力を尽くしても駄目なことはある、そんな冷たい事実を前提に、「それでも生きている限りはやれることをやる」からこそ、僕達を感動させ、支えもする。
そして例えば、神代辰巳の「男と女にゃ、アレしかないのよ。バンザーイ」と同じように、ただ生きてしまう人間を肯定し、意味や甲斐を求め、個々のプライドで自分を支え縛って生きていく僕たちの上に広がる空を、少しだけ高くしてくれる。