文壇高円寺、荻原魚雷氏が知らせてくれたおかげで、ヤフオクにて色川武大『御家庭映画館』をゲット! これでようやく色川名義の著作はコンプリートした。

「近頃でもヒューマンな感情を売り物にする映画はある。それがあまり泣けないのは、ひとつには、登場人物が愚かしくなくなって、生きるための一通りの知識や概念を身につけてしまっているからではないのか。世間一般のレベルがそこまであがってきているので、かえって人物たちが小利口になっている。昔は、人間というものは(自他ともに)かわいそうな存在だった。今は一人一人が組織の中に組み込まれていて、不充足はあるけれど、かわいそうな存在に見えない。だからどの人物もおおむね立派なことばかりやっている。幸せも不幸も浅い足跡しかつけず、人々の目標も、普通に生きられればそれでいい、というふうに変わってしまった」『道』

こうした、色さんの「とてつもなく引いた視線」に、いつもながら、というかいつも以上にびびりまくり。
これに比べるまでもなく、俺なんか全然、目の前の対象や喜怒哀楽に振り回されっぱなしだな、と思った。まあ、と言っても卑下しているだけでもなくて、それも良し悪し半々くらいだと思うんだけど(彼じゃなく、逆境や孤独を通過していない人が、ああいう引いた人間観を口にしたら、やっぱ信用ならんと思うし、ムカつくもんな)、このところ思春期の実感に深く入り込んだ思索が続いていたので、揺れ戻し的にそうした感慨を強く持った。
しかしとにかく、色さんは凄いね。

昨日から今日にかけて、雑誌などまとめて購入&立ち読み。

いろんなとこで話題になってる『ぴあ』の新雑誌『Invitation』の80s'特集を読んだ。
しかし、尾崎も明菜もカケラもなし。ホットロードがほんのちょっと。
我々が「ヤンキーロック」特集で扱ったあたりがスッポリ抜けた、いつもの文系サブカル史観の80s'特集だったけど、中森明夫宮台真司対談での中森発言、80年代を回顧することくらいしかできないユルユルの新世紀への処方箋、有害すぎない範囲で他者や社会の抑圧を共有するための手段として「自動車教習所の合宿を通過儀礼に」ってのには思わず膝を打った。
さすが、冴えてるなあ。本気でユルユルに苛立つことのできない層からは、反発も受けそうだけれど。

『エンタクシー』3号。これも残念ながら、号を追う毎に、打ち出しゼロの横並び状態というか、状況に対する違和感も緊張感なく、80年代サブカルメンタリティの中途半端な古くささばかりが目立ってくるけれど、吉田司の連載は面白かった。
「癒しのインターナショナリズム」とはよく言った! 小熊英二氏らに感じていた漠然とした疑問が一気にはっきりした。自尊心が傷付かない形で「居場所」や「癒し」を欲しがる「個人原理主義」は、思想の中身も左右も、インテリも大衆も全く関係なく、現代日本の一般的精神構造だ。
「ファーストフードやコンビニで自給800円でアルバイトするか、風俗で1日一万数千円を稼ぐか、その二つの選択しか」ない地方の下層マジョリティ出身の少女達に同情のポーズを示してみせる一方で、能力(活力)のある者が天国の利益を得て何が悪いという能力主義「格差」社会の到来をことあげしまくる、村上龍の欺瞞を、「それなら前出のフーゾク「身売り娘」たちは皆、能力低劣の者たちばかりであったかい!?」、とズバリ指摘する手際も見事。
やはり彼は、強くてフェアな人だな。

自分可愛さに流されず、自分の世間におもねらず、相対化するだけの「強さ」が前提に無いと、本当の意味で他者に優しい、フェアで公的な態度って取れないもんなんだよな。
ただ、これはイナカモノの共同体の欺瞞暴きをライフワークとする彼に言っても仕方の無いことかもしれないけれど、「他者に依存する前に独りになれ」って説教、本当にその通りだと思うんだけど、同時にこれ、結局寄る辺無いイナカモノを差別し、追いつめる結果にしかならないってことも、俺が思春期からこっち、いろんなとこで直に見てきた実感。彼のような強靭さや才覚が無ければ、何を根拠に「強い個」を、どう作っていくかっていうのは本当に難しい。彼自身指摘するように、個人主義がミーイズムへと摩り替わってしまっている現在では尚更。いわゆる戦後の創価学会的なものって、やはりどこか受け皿として必要なんだよな、とは思う。で、それをいかにできるだけ健全な形で存在させていくかってふうに考えていくことが。