「人は結局自分の思いたいように思っていればいい」を法律で後ろ盾てしまうことの問題

性自認主義(を法的規範に組み込むこと)の何が問題なのか。
「人は結局、自分が思いたいようにしか思わない」こうした気分や認識は、どんどん僕等の中に大きくなってきている。
しかしかといって、自分の思いたい自分、思いたい現実を、他の者もそう思うとは限らない。自分の意識や欲望だって、他者や周囲がどう思い考えているかに大きく影響される、あやふやや不安定を相当に含んでいる。だから本当は「自分の思いたい」こと、つまり自分の内心だってなかなか自分の自由にはならない。自由を拡大するということは、そうしたあやふやで捉えがたい部分の割合が、自分の人生の大きな部分を占めていくしんどいこともある。だから、人は自分を規定してくる限界や枷、生まれ持った身体条件や能力、資質といった自然や、社会などの環境といったもので自分(の世界観や認識、生きていく方向)を支えてもいる。それに逆らい、よりよく生きたいと思うことも人の本性だけれど、そうした自分を律してくるものとの葛藤無しに、自由の切実さも輪郭を持たない。
自分を制限してくる外界や他者も、自分の輪郭を形造る大きく重要な要素であるということ。この前提を丸ごと忌避し、否定しようという方向、「思いたいように思えばいいし、他者や社会もそれを全面的に認めるべきだ」という方向は、自分の、人間の、生きることの輪郭を失くし、混沌と虚無に追いやってしまうことでもある。
「思いたいように思えない」条件こそ、確かな自分でもあるのだ。
「思いたいように思っていい」を無制限、無警戒に法的に後ろ盾てしまうことは、大きな混沌や混乱に人を追いやる怖いことだというこの認識が、枷からの解放をただ礼賛する人々や思想には、大きく欠如していると思う。

最後に付け加えると、自由の保証を過度に法律に頼ること(あなたまかせにしてしまうこと)は、自分がどうしても守り抜きたいもの、捨てられないもの、他者と争い何かを犠牲にしても優先したい欲望を確認する過程、自立と他者への仁義を育む過程を、奪ってしまうという危惧を、自分は強く持つ。

 

性自認について自分の考え方をもう少し

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/05/13/193710

に続く。