人の弱さや善意につけ込む思想への嫌悪

弱い人や、傷付いた人、優しい人たちを必要以上に不愉快にさせたくないから、あまり口にしたく無いのだけれど、そうした人の弱いところ、心の柔らかいところに訴えて取り込んでしまう、思想や信仰やマルチビジネスなどが本当に苦手だ。必要とする人たちを一概に否定したくないけれど、やはり苦手だ。
自分が弱さや痛みを意識していると、同じような傾向を持ち、苦しんでいる人のことがどうしても気になる。できれば、援助したいと思う。心が通うといいなとも思う。けれど、そういう自分も本当は自分のことでも精一杯で、なのに分不相応なことまでついしたくなってしまって、却って無責任なことになったりする。相手のプライドの問題や、互いの相性だってある。だから、慎重に自制しなければいけないという気持ちと、でも自分だけという生き方はしたくない、出来ることはしたいという気持ちがせめぎ合っている。
そうしたそれぞれの事情や心の距離の意識を、こうした思想や信仰は乱暴に消してしまおうとする。その人の弱さ自体をアイデンティティや正義のように錯覚させてしまう。安心させて、誰はばからない気持ちにさせてしまう。彼等の隣人である優しい人たちも、弱い人に対してはどうしても遠慮や負い目を感じるから、なかなか弱い人の心の動きを、厳しく咎める気持ちになるのは難しい。けれど、弱いことと、正しいということは決してイコールじゃない。本当は、誰が誰より弱いか、困っているかなんてことは、簡単に外から推し量れない。その曖昧さがしんどいし、後ろめたいから、怪しくない公式な場所からはっきりした基準らしきものが示されると、つい安心して乗っかりたくなる。そして、良い人になりたくなる。それに反するはっきり悪い人がいれば、善悪が鮮明になって自分も落ち着く。世の中がみんなでそんな状態になっていると、それに疑いを挟むのは難しいし、弱い人の敵になるような気がすることも、それで自分が悪者のようになってしまうことも、辛いししんどい。だから、そんな汚れ役はなるべくやりたくない。
そうやって、人の距離やデリカシーを、大義名分と空気によって奪ってしまう思想や信仰は、そうした弱さから自立しようと必死な人間には、これほど不愉快なものは無いのだ。これに比べれば、意識的な悪やエゴは、そうはっきり見える分、ずっとマシだし距離を取るのも楽だ。
弱さや善意を利用され、付け込まれるのは、本当に辛いし腹立たしい。
それを求めてハマってしまう人も、多くはもともと弱くて優しい人たちだから、なるべく憎みたく無いのだが、後ろめたさを失った人たちの様子は、如何ともし難く見苦しくて辛い。

 

追記。

この文章を書いて、いわゆる薄っすらと左翼の人から、あなたの文章は粘着質で気持ちが悪い、人を裁いたり罰したいという気持ちが隠されているから(と、他の人も言っているよ)と言われた。罰そうとは思わないけれど、怒りや不快を抑えながら、彼等を含む思想体系に同化して、あるいは疑ってはならない正義であるかに奉じて(時には奉じていることさえ曖昧に)他者にも迫る者を批判しているのだから、彼がそう感じることは当然だろう。
しかし、自分を善人だと疑わない無邪気な人というのは、残酷なものだなと思う。

 

更に追記。

人は時により善人(の側)になったり悪人(の側)になったり、強者(の側)になったり弱者(の側)になったり、加害者であったり被害者であったり、多数であったり少数であったり、押し通したり譲ったり、その両方でありながらなんとか最終的な決裂を迎えないよう共存していくものだろう。自分のことになった途端、たったこれだけのことがわかなくなる人が、何故こうも多いのだろうと思うのだが、往々にして能力もあり温厚な好人物だったりするほど、世間にも入れられ、他者との軋轢で人の辛くほの暗い部分にぶつかる機会が少なく、自分もそうならずに済んでいるから難しいものだ。
悪人ははっきり悪人、敵ははっきり敵で、自分に対して横暴強行であれば、少なくとも内心の色分けはすっきりする。しかし、意見や好みや立場の違いがはっきりした部分もあるのに、相手が敵対的で無く温厚だったりすると、敵とも味方とも決められず、どう腑に落としていいか落ち着かない。
無理矢理に仲良くすることはないけれど、こうした不愉快な他者を視界に入れつつ、何とか共存や棲み分けを工夫するのが、多様性の尊重ということではないか。
そして、自分は虚しいまま自己愛の強い個人が溢れた末に左前になった世の中で、こうした不快に極端に敏感、狭量になっているのが、今という時代の萎縮と閉塞の正体なんじゃないか。

そんなお互いが、五月蝿く怖くて不安で我慢ならないのに、それが認められなくて、闇雲に捌け口を求めて他罰と規制にはしってるんじゃないか。