曖昧な情の世間が寛容で優しいわけではない

なあなあで曖昧な人間や世間が、他者に寛容で心が広いなんてことは当然ながら無い。曖昧なようで、試験当日に前日勉強しなかったと吹聴しあうように、内心では牽制しあい、互いの顔色や世の趨勢、潮目を読み合っている。そこで浮き上がったり、落ちこぼれたりすることを何よりも恐れているから、世間や周囲の趨勢に逆らったり距離を取ったりすることは出来ない。
そして一旦潮目が変わると見るや、素早く皆で暗黙に歩調を合わせるように乗り換える。独自の筋や判断にこだわっていたら、置いて行かれて割を食い、下手をすれば「何故変わらないのか!」と、旧悪の責任を押し付けられてしまう(つい先頃も、価値観のアップデートだと、世渡り上手たちが率先して新ルールを吹聴し押し付けていたように)。
こうしたなし崩しの欺瞞から距離を取り、自分なりの筋に誠実である為には、全方位と距離を詰めない孤塁を守り、世間と提携する姿勢と力を守り養いながらも、最低限世や他者に阿る嘘をつかずにすむ自由を守るよりない。
これが、自分が信頼に値すると感じ読み続けている書き手たちから学んだことだ。