久々に

m@stervision http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/index.html
を読んでいたら、『シティ・オブ・ゴッド』がレビューされている。この作品、今のところ俺の今年の映画ベスト1最有力なのだが、氏の評価は星5つで満点の1つ。短いレビューだったので、ここに全文転載する。

シティ・オブ・ゴッドフェルナンド・メイレレス
極端に短いカットを矢継ぎ早に繰り出し戯画化された劇中世界に力ずくで観客を巻き込んでいくオープニングに「DEAD OR ALIVE 犯罪者」のそれを想起し、おお、こりゃ三池崇史だ!と洋の東西を越えたシンクロニシティにひとりコーフンして途中まではたいへんに面白く観ていたのだが・・・1時間で途中退出。たとえそれがどれほど現実に即したものであったとしても、子どもを残酷に撃ち殺すような描写を娯楽として供する意義など、おれは絶対に認めない。

この作品、確かに「銃社会こええ〜!」と思わせる映画で、自己抑制が利かない子供が銃を持てるために、ギャングが極端に低年齢化、10代の子供がまんま「仁義なき戦い」をやってるというふうの内容。それも、調子付いた子供がやっていることだけに、観ていてより落ち着かないし、陰惨な気分にもなってくる(例えば、「広島死闘編」で、千葉ちゃんが拓ボンを吊るして、射撃訓練の標的にしてたようなことを、子供が子供相手にやってたりするわけだ)。
そうした、普通にリアルに描写すると暗くならざるを得ないような話を、MTV風のスピーディーでコミカルな演出(かの「仁義なき戦い」だって、当時の常識で言えば、まともにストーリー追ってらないほど、スピーディー、アナーキーな編集だったわけだが)で、ポップに見せる。けれど、それがポップでカッコイイってことがまた、こちらをぞくっと薄ら寒くさせるってところもあったり…
しかし、表現、ことに若者文化なんてのは、そういった新しい「レアな現実」をいかに果敢に取り込むかってことこそが、最大の価値とされるような側面もある。例えばウエイン町山氏は、生々しいチェーンソー殺人シーンのある「スカーフェイス」を下品だと退けた蓮実重彦の評を、タカビーになったオヤジの感性の枯渇だと批判した。俺自身、「シティ〜」を観て、前記したような薄ら寒さは感じたが、監督は単にセンセーショナリズムに阿っているだけではなく、ギリギリのところでリアルかつカッコイイ映画を撮ろうと、細心のバランス感を意識して働かせていると受け取ったので、むしろ果敢な挑戦とその成果に敬意を感じている。だから、このm@stervision氏のきっぱりとした極端さが、むしろ意外であり、同時に興味深かった。

俺は氏が日寄ったとか、オヤジだとか、揶揄しようというつもりはない。
状況の変化や新しさを、その渦中の混乱の中にいる者として果敢に表現する者の勇気を、俺は支持したいと思っているけれど、同時にいたずらに新しさを誇り、それに対する違和感や抵抗を「古い=悪」として切り捨てようとするような、若者文化にままみられる調子付いた態度には、むしろ強く違和感を感じることが多い。
町山氏ら、アメリカ発のポップカルチャーにおける、「ヒップ」の価値観に深く影響を受けた秘宝系ライター(とひとくくりにするのも乱暴だが)の「きっぱりとしすぎた」姿勢にも、優柔不断な野暮天の俺は、抵抗を感じることも少なくない。

そんな俺であるから、「とにかく嫌だ」と、生理的、体質的に「シティ〜」を拒否したm@stervision 氏の態度を、それはそれでまったく構わないと思う。ただ、今回の直感を直感としてそのまま完結してしまうのでなく、時に自らの「ヒップ」の価値観を相対化し検証する材料にもしてみてほしい、そして、煮え切らない気持ちにもう少し耐えるべきなんじゃないか、とは思った。
甘く、優柔不断な社会に生きる者の、のんきな実感という側面はあると思うけれど、自分のなかの基準がいつもはっきりしていることよりも、沢山の保留事項を抱えていることに対する自覚と謙虚さの方がずっと大切だと、俺は思うから。