手がかりがなく、途方に暮れる

自分の感覚はそのままでは受け入れられない、だから隠して何食わぬ顔で正解に口裏を合わせていないとまずいと、物心ついた時には思っていた。だから、相手や周囲の顔色を常に伺うし、サービスも譲歩も反省もできる限りする。
しかし、そうでなかった者は、進んで自分の感じ方や場所、視点を疑うのは、とても難しいことなのだろう。
或いは、ストレート受け入れられにくいこと、察することには慣れていても、帳尻を合わせて同化すること、どこかに馴染んでしまうことにも慣れていたら、やはりそうした自分たちの(みんなそうだと思っている)やり方を疑うことは、なかなか出来ない。
だから、世間の潮目自体が変わらない限り、彼等との会話は、本質的に深まることが滅多に無い。

若い頃は、とにかく自分に自身が無く、自分が恥ずかしくて、余裕を持って他者や社会に対峙することが出来ず、あてどない不安と孤独癖に苦しんでいた。しかし今は、自分の言葉にそれなりの自信も必要も感じていて、少なくとも自分を納得(説得)させることは出来ている。でも、自分を賭けた言葉が、誰かに届いている気がしない。しかし、これ以上のことが、自分の力で出来る気もしない。したいとも思えない。何度も認識の角度を変えて、繰り返し自分の考えや感じ方を苛めてみるのだけれど、相変わらず何の反応もなく独りでやっていることだから、だんだんどうしていいかわからなくなる。
そうして、また他者や社会へのとっかかりが無くなってしまって、途方に暮れている。

若かった頃のように、具体的に自分の毎日を脅かされているわけでは無いのだから、比べれば気楽なものだとも思うのだが、とは言えやはり虚しいし辛い。
しかし、ではこれまでを後悔しているかというと、後悔はしていない。むしろ、こうなるしかなかった、何度やりなおしても、結局こういう生き方をしてしまうだろうと思う。

人は、そのまま丸ごと信頼出来るほど一直に生きているわけでは無いし、自分がこうしてある部分が過敏で、欺瞞を許せず一直になること、その方向が現在の他者や社会と噛み合わないことも、突き詰めれば資質と環境と時勢の組み合わせによる偶然で、誰を責める筋合いのものでも無い。
こういう時、人は信仰を必要とするのかもしれない。自分の都合を認めて貰う為でなく、偶然の運不運を納得して生き死にするために。

とはいえ、生きてみないことには、落胆も諦めも何もない。
何もないより、あったほうが豊かだ。
人間が嫌いなわけではない。
離れて見たり、思い出したりする分には。
いや、離れて内心だけを覗くと却っていやになる。罪のない部分だけで時間を共にしている分には、と言い換えた方がいいかもしれない。
ともかく、人間を嫌いにはなりたくはない。
ならないようにしたい。