『らんまん』と『赤毛のアン』

今朝の『らんまん』。
自分に引きつけた解釈で、作り手が込めたものとは違っているかもしれないけれど、宇崎さんのジョン万次郎の自分に出来たかもしれないことを果たせなかった後悔というのは、見方を変えれば強く自由に夢見た者が背負う桎梏とも言えるのではないかと思った。夢見てしまうこと、(あるかもしれない、あったかもしれない)可能性は、一方で人を苛みもする。それに強く良い悪いを言い過ぎない(と、僕は感じた)このドラマに、闇雲に自由に憧れた時代を過ぎた、現在ならではの視野の広がりを自分は受け取っている。
お姉ちゃんは、自分が生きてきた経緯や条件を感謝を持って受け入れようとすることを選ぶ。竹雄も、自分の恋情を伝えたり、彼女を説得しようとすることなく、影から彼女を支えていくことを選ぶ。まだ、今後二人がどうなって行くからわからないけれど、かつてのドラマならこういう人物たちを、自分の(自由な)思いや可能性を突き詰めて追求することから逃げて、諦めてしまっていると批判する視点が強調されることが多かったように思う。
自由民権運動のリーダーも、大義への参加を万太郎に押し付けることなく、万太郎にとっての夢や自由を認めるところが良かった。
勿論、これが唯一の選択であり正解だとは思わないけれど、自由を自分の素直な内心や、自分の持つ条件を受け入れる自由も含むと解釈するこのドラマの視点は一つ見識であり、歓迎したいと僕は思った。
赤毛のアン』のラスト、マシュウの破産と死によるマリラの苦難を前にして、自分の兼ねての夢よりも、故郷でマリラと生きることをアンが選ぶことを、美しさであり幸福なものとして描いたことに、僕も人の美しさを感じ、共感したことを思い出した。こうした選択もまた、自由に固執しない自由であり、一つの幸福な成熟の在り方なのではないか、と。