無自覚に夢見がちなネトウヨたち

「生活者としての私たちは、多くの場合、「現実離れした」夢を持つ人間には冷たくなりがちである。そんな夢を捨てて、現実を正確に捉え(といったって、前述したように私たちが現実だと思っているものの実相は全然私たちの思い込みとはちがうものであることが多いのだが、とかく私たちは、思慮深げに)もっと大人になって現実に適応すべきではないか、などといったりしてしまう。(…)
このリアリズムの時代に「現実離れした夢」を持つことは、まことに難しい。現実を変えてしまうくらい執拗に夢を持ち続けるということは誰にでも出来ることではない。
だからこそ、キホーテとセルバンテスが夢をねばり強く持ち続けることに感動するのだし、その夢が力を発揮する瞬間には、言葉は妙だが「切実な」ロマンティシズムを感じてしまうのだろう。
長いこと私たちは、国家とか制度とか主義とか世間とかに向って、個を主張して来たところがあった。なにものにも侵されずに個が発展することが善であるというような気分の中で生きて来た。「あるがままの自分」が、自由に生きられる世界を求めるところがあった。
しかし、多くの凡人にとって、「あるがままの自分」は砦をつくって守るにはみすぼらしすぎ、周囲に他人を排して、結局はごろごろテレビを見ている自由だけを獲得したにすぎないということも多い。それで結構だという人も多いだろうが、それではやりきれないという気持が湧く人も少なくないはずである。「あるがままの自分」をどこまでも肯定して生きるのではなく、「あるべき自分」「なれるかもしれない自分」に夢を抱きだいと考える人も、きっと多いのだ。この作品(『ラ・マンチャの男』)は、そういう人々の心に応えるものを豊かに持っている。夢を抱くことは至難のことだが、最後の幕がおりた時には、自分の中の「アルドンサ」を、ことによると「ドルシネア」に変えることが出来るかもしれない、といい年をして、涙ぐんだりしていたことであった」
山田太一「夢の力」

夢見がちな左派やリベラルを執拗に批判し、彼等に現実を直視、認識する理性を求め続けずにいられない(それが、現実や身の丈を離れて半ば自己目的化、永久革命化している)ネトウヨたちの中にも、ロマン主義を批判するロマン主義者の夢見がちさがどうにも見えてしまう。
だとしたら、どうにも希望的観測を持って強引になってしまうことを容易くはまねがれない(特に、それが許されてしまう今のような余裕のある現実の中では…)自分を認め、直視しておくこともまた、重要な理性だと感じる。