結婚と家族をめぐる政治的対立に思うこと

少し長いけれど、結婚や家族に対する、左右の対立に思うことを纏めてみた。

僕は今も単身者だけれど、自分は変わり者で、ちょっとハズレた生き方をしてきたから、かなり特殊なケースだとずっと思っていた。ところが気が付くと、いつの間にか世の中に中高年の独り者がまったく珍しくなくなっていた。
一人一人がプライベートを大事に生きるようになると、家族や子供に一生のうちの大きな時間を割くことが億劫なような気持ちになることは、ある意味自然な流れではあるだろう。ただ、多くの人は、好んでプライベートに執着したり、人を億劫がったりしてはいるけれど、内心は覚悟なくなし崩しにそうなっていたという面が大きいのではないかとも思う。はっきりと結婚しない、子供を持たないと決めていたわけではないから、いつの間にかの現在に、不安や後悔を何となく引き摺る人も多いのではないかと感じる。だから、どこか厭世的にもなっていたり。自分の人生が、自分だけで終わって途切れてしまうのだから、それも当然といえば当然だと思う。

この現状が虚しく思えるなら(或いは上の世代を見て、自分たちはこんなのは嫌だと思うなら)、孤独のリスク付きの自由よりも、パートナーや家族で暮らす不自由を選んでもまったく構わないと思う。

ただ、僕が現在の、結婚や恋愛、或いは家族を語る議論を見ていてよくないなと思うのは、それぞれが勝手に生き方を選ぶことを許さず、特定の方向を正解として一般に強制しようとする声が大きすぎることだ。
ネットは特にそうだけれど、今は政治や思想の世界では、そうやって男女がいがみあう声が、どんな社会問題よりも激しく熱を帯びて叫ばれているように思う。
一方は、個人の自由を最優先する生き方(をしている自分たち)を肯定したいから、それを正義として主張し、家族を基本的に旧弊な悪だとする主張。もう一方はこれに反発し、家族や結婚は、本来幸福の基本であり常識であるとする主張。
前者を叫ぶ人たちが、いわゆる左翼やリベラル、フェミニズムの人たち。対して後者はそれに失望している若い世代や貧困層(彼等自身がそれを選んでいるわけではないけれど、自民党などの旧来の家族観を主張する政治勢力や、統一教会の主張と結びつけてマスコミなどでは喧伝されがちだ)。
そして、僕自身の考えを言えば、まず前者の人たちが、自身の家族に対する被害者意識や、個人的に生きることへの権利意識への執着から、家族や結婚を否定するかの強硬な主張をし、広く押し付けようとしていることを、良くないなと強く感じている。彼等一人一人は、自分の家族関係に傷ついてきたり、単身者であったことで差別を受けてきたという思いもあるのかもしれないけれど、それを一般論に拡大して、結婚や家族に居場所や幸福を求めることを強硬に否定しようとすること、そのために、極端なジェンダーイデオロギーを叫ぶようなことは倒錯だし、逆にそれが階級的差別の温床のようにもなってしまっていると感じる。
一方後者は、前者のような主張がはびこると、結婚しようにもパートナーがいなくなってしまうから、当然これを嫌がる。そして前者が強硬である程、反動で旧来の結婚観や家族観をやはり強硬に主張して、個人に対して排他的になるようなことも起こっている。それが、急進的にネトウヨのような姿勢に結びついたりもする。それが、広く一般の傾向にまでなっているとは、僕は思わないけれど、左翼やフェミニズムがこれを敵視しタブーにしようとしすぎたり、男性への要求や規制を拡大していたずらに恋愛のハードルを上げてきた為に、現にパートナーを得られず、結婚できない事実と相まって、より焦りや反発が増していることも確かだと感じる。強引に家族の問題点を統一教会と結びつけて語ろうとするような左派勢力やマスコミの姿勢が更に対立を激化させる。
しかし現実は、誰かの意図や思想によって家族が解体しているというよりも、それぞれがプライベートの時間や趣味を大事に生きるようになった結果、他者が遠ざかってしまったという必然的な流れが、すべての大元にある。まず自分のそうした現実と傾向を直視して、もしそれが行き過ぎていて、自分の人生や幸福を損ねていると感じるなら、互いにプライベートの自由の部分を譲歩しながら、結婚や家族づくりの敷居を低くするよう、個々の事情の中で意識を変えたり、努力していけばいいと思う。
他方、女性の社会進出が進んだせいで、結婚が出来にくくなったなどと、それを封じようとするのもまた、まるで間違いないでは無いまでも、一方的で行き過ぎた倒錯だと思う。現在は既に、男でなければ務まらないような職種の方がわずかになって久しいし、経済的にも共稼ぎでないと、互いに満足できる生活を維持できないというのが大方の現実だろう。その事実の上に、出産や育児に関する男女の条件の落差もあるのだから、それを直視しながら、共に働く各々の事情を配慮し、出来る範囲で調整、支えあっていくべきだろう。男女差も個人差も事情が不揃いなのだから、男女の社会進出が完全に一律平等になることもなかなか難しく、必ずしもそれが良いとも言えないだろうけれど、共稼ぎの現実がある以上、なるべく行き届いた配慮を持つべきだろう。
非現実的に、却って歪みが出るほど、原理的に平等が主張されすぎても困るが、逆に女性の社会進出を嫌うのも非現実的観念論だと思う。
家族は悪であるとか、逆にある家族の形だけを標準として他の事情に狭量になるような、特定の思想を極力介入させるべきでないと、強く感じている。
一人一人は、ただ自分の都合や希望だけを個人的に引き受けたり、提出することがなかなか不安だから、どうしても後ろ盾になる大きなもの(思想)を求め縋ってしまいがちだが、そのことによって逆に個々の事情が、政治や思想の対立に絡め取られてしまって、誰も幸せになっていないじゃないかと、最近強く感じる場面がますます増えている。

 

「自分の思いたいように思っていればいい」を法律で後ろ盾てしまうことの問題

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/05/12/162825

に続く。