かぐや姫の物語

15日新宿ピカデリーにて。
大変な創意と手間と資金が注ぎ込まれた力作、野心作であることは重々承知の上で、正直な感想を言えば、「生きる手応えさえあれば!」というかぐや姫の科白に反し、何ら心に強い手応えを残さず、淡く流れすぎて行ってしまったような、肩透かしを喰ったような印象、ということになってしまう。


理知と思想の人と捉えられがちな高畑勲監督だけれど、僕は根本的には情念の人だと思っている。強い情念があってこそ、あれだけ冷徹に人間を見つめ、負の部分も含めて徹底的に寄り添い、生きる痛みごと観客にぶつけるようなこともしばしばしてきたと。
情念が求めるものに形を与えるために、思想や知識、ディティール、方法論を総動員する。けれど、それが過ぎて手段と目的が裏返ってしまった時、作品が空回りしてしまう。


本作での、人工物に包囲されすぎない、自然の息吹を感じ、そのサイクルと調和しながら生きることを求め、良しとする高畑さんの願いと思想自体を、僕は否定しない。
今に満足できず、見果てぬものを求め、或いはあったかもしれない「本当のこと」を過去に求めてしまう人間の業、そうした人の愚かさ儚さも含めて、丸ごと慈しみたいという願い、本作に込められたものも頭で追うことはできる。
しかし、それに命と重量感を与える、登場人物の感じる痛みや、熱さ、寒さ、生きて暮らしていくことの重みを、僕は今作の画面や物語から、残念ながら体感することが出来なかった。


例えば『赤毛のアン』では、100年前の原作者の現実の中で「当然すぎる前提」として端折られていた、プリンスエドワード島の四季の風景や、自然のサイクルの中で営まれる日々の労働の様子が、丁寧に描かれていた。それが、特別なメッセージなどなくとも、自然と信仰の中で、質実で静かな日々を生きる人々の美徳を体現していた(一方そこには、それを破壊し、バラバラにしてしまう程大きくはないが、田舎の閉じた閉塞感を開く光としての、近代の風の魅力までも、正直に描かれていた)。


例えば『母をたずねて三千里』では、ゴミあさりをして日々の糧を繋ぐインディオの少年パブロが、貧しさゆえに医者から門前払いを食い死に貧していた彼の妹フアナを、旅費を抛って救ったマルコに報いるために、彼を貨車に忍び込ませ、自分は囮となって駅員から棍棒で殴られる様子を、子供たちに向けて容赦なく、生々しく描いた。そこには、貧しさの中でも確かに手応えのある、人の出会いと別れがあった。


しかし、『かぐや姫の物語』で描かれた自然の中の暮らしに、そうした温度や、生活感と結びついた生々しい量感を、凝ったディティールや考証にも拘わらず、僕は感じることが出来なかった。竹取や山の子供たちに、痛みと不可分の生の手応えを感じることができなかった。


こうの史代さんは、『熱風』に寄せられた文章で、はっきりと背景を描き過ぎないことによって、時と場所が特定されすぎず、自然に人物に入り込めたと書かれていたが、僕は逆に、例えば『三千里』の、古い高層建築の間にたなびく洗濯もののような、綿密な背景から浮かび上がり体感される、生活感にはとても及ばないと感じた。


あるいは、そうした生々しい痛みや貧しさから遠い、現代人の隠喩として、ドギツい描写から遠ざかって、かぐや姫の渇望や悩みををもっと抽象的なものとして描きたかったのかもしれない。
しかし、では野山での子供時代の暮らしと、都での堅苦しい街暮らしの対比は何だったのか。前者が、あまりにも淡く楽天的だったのと同様、後者も(求婚エピソードなども含め)コミカルにあっさりと過ぎて行き過ぎて、かぐや姫の拒否や嘆きが唐突で大袈裟なものとして浮かび上がってしまっているように感じた。
同様に、かぐや姫の無邪気な躍動や飛翔シーンも、どこか取って付けた空騒ぎのように感じられてしまった。
ペッピーノ一座やパブロ、マシュウやマリラやリンド夫人のような、暮らしを持って生きる人間の細かな性格や手ざわりの魅力を、本作の登場人物の誰からも、僕は感じることが出来なかった(唯一挙げるとすれば、既に妻や家族を持った幼なじみの捨丸兄ちゃんが、かぐや姫と再開した途端2人で逃げようと言い出し、その後すべては夢だと悟ると、何事もなかったようにあっさりと家族のもとに戻っていく描写に、高畑さんらしい、人間を見る視線の懐の深さを感じたくらいか)。


人の世の無情も無常も、その中にもある人の一瞬の生の輝きや幸福も、旅の途中でマルコが出会う、その後も必ずしも幸福ではないだろう人々の有り様、生き様や、掛け替えのないマシュウの死の喪失感や、マリラと共に敢えて限られた未来を選ぶアンの幸福観から、充分に受け取らせて貰っていた。
長い時間をかけてキャラクターを描き込んで行けるテレビシリーズと、1本の映画を比較することはフェアでないかもしれないけれど、かつての高畑作品のファンとして、そしてずっと彼の新作を熱望していた者として、今作に物足りなさが残るというのは、どうしようもなく正直なところだ。


最後にあの、人物と背景が水彩画のように溶け合う手法について。
僕は、違和感を感じたというよりも、すぐに慣れて当たり前になってしまったというのが実感。
最初の特報で観た、スケッチのような描線が荒々しく躍動する、かぐや姫の疾走のインパクトに、期待が膨らみすぎていたのかもしれない。
かぐや姫を、感情移入可能な生々しい人間として描くことに、必ずしも成功しているとは自分は感じられなかったので、いっそサイレントの短編イメージ映像のようあスピード観で纏めてくれた方が、手法が生きた気がする。


かぐや姫の物語』特報
http://www.youtube.com/watch?v=TKbXE-UhW1I