武田百合子×深沢七郎「武田泰淳、その存在」より

武田「それは病気とか脳血栓とかじゃなくて、武田の本質的なものという気がする。山から朝いつも早く帰ってくるの。朝五時ごろ私は叩き起こされて、運転して東京まで帰ってくるのね。ずっと山を下りてくると、富士山に登る登山道があるの。そこのところにナップサックをしょって、崩折れちゃって雑巾みたいになって草むらから車道のところに体半分くらい出て寝ころんでいる男が明け方にいたのね。私はそのとき運転していて、あれっ、あんなやつがいる。気持ち悪いんじゃないかしら、停めて聞こうかと言ったら、そのとき暗い目つきをしてね。そういうようなことをするおまえがいやだということも入っているし、そういうことがいやだということも入っていたでしょう。理由は言わないで、黙って暗い目つきで私を見て、するなというような目つきで見て、それで私はそこを走り過ぎだの。私の考えでは、福祉事業とは思わないけれども、とっさに見てちょっと助けたい、ちょっと声をかけたいと思ったんだけれど、そういうのはいやという、すごい暗い目つきをしたの」
深沢「自分が気持がよくないと煩わしくなっちゃうんですかね」
武田「そのころ病気ではなかったんですよ。だのに暗いような目つきで、チラッと私のことを見た。それからもうその目つきしなかったけれども、その目つき見たときに私はもう、二度とこういう人を助けるとか、そういうようなことにちょっかいを出すというかな、そういうことを二度と私は言うまいと思ったのね。それがとっても印象に残っていてね。それよりもずっと前から、武田は署名運動が嫌いなのよ。電話で頼まれると、自分が断るのはうまく断れないから、私が断るんだけど、絶対おれは署名運動はいやだっていうのね。だから私、ときどきは言い返したけれども、なんかその暗い目つきをすると、もう言えないのね」
深沢「人を助けるとか、お経をあげてご利益があるとか、そんなことはもうなんの意味もないということを武田先生はよくご存じですよ」
武田「ちょっかいを出すなというのかしら」
深沢「そんなことは百も承知の先生なんですね」
武田「署名運動というのをなぜいやなのかというのを、私が聞き返したことも一回くらいあったけれども、署名運動は机のなかにしまわれちゃうものだって言われたことがあったけれども、そんなこと言葉で言われるよりも、私は暗い暗い目つきをされると困っちゃう。なんだかそのときのことは印象に残った。死んじゃってから話すと、なんでも意味ありげになってしまうから、あれも意味ありげということになっちゃうかもしれませんけれどね。もっとほかに十倍も百倍も私はいっぱい怒られているんだけれども、怒らないでその暗い暗い目をして言われちゃうのは、ほんとうに印象に残っている」