武田百合子(談)「夫・武田泰淳の好きだった言葉」(2)

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大好きだった映画

何にでも興味を持つ人で、殊に映画を見るのは好きでした。映画を見に行く理由の一つは、ふだんあまりタバコを吸い過ぎるから、映画館に入っていると、少なくともそのあいだは禁煙だから、タバコを吸わないですみ、体にいいというのです。
私がいっても、誰がいっても、禁煙する人ではなかったのですが、映画館の中に、「禁煙」と書いてあると、実に律儀に守る人でした。
映画館ではタバコの代りに肉マンを食べるのが好きで、館内の暗いところで、ふかしたての肉マンを食べました。フカフカと湯気が出ているのを食いちぎってはほおばりますと、ムッとする肉マンの匂いがあたりに立ちこめ、回りの人は迷惑したんだろうと思います。場末の三流館で観ているときならまだしも、有楽町みたいな封切館に入ったときでも、武田の癖はそのままで、やはり肉マンを買ってきて口にほおばります。
あるとき武田のうしろで映画を観ていた女二人の学生風のお嬢さんが、急に立ち上がって、さっと席を変えてしまったことがあります。そのとき、そのお嬢さんが小さな声で夫に不平を鳴らしたらしいんですね。武田が何ていったんだろうっていうので、あんな人と結婚したくないわよねえって言ったに決ってるよ、と私はいいました。それでもやはりこの癖はなおりませんでした。肉マンでなければカツサンドか、のしいかにアイスクリームです。
夫が肉マンをほおばっているとき、私と娘はアイスクリームを食べます。三本立の映画館に入りますと、どこの映画館でも同じメーカーのアイスクリームを売っておりましたが、これが味が悪くて半分食べると頭がツーンと痛くなり、いつも途中で捨てたものでした。アイスクリームが全部ミルクで出来ていたなら、きれいに溶けてしまうはずですが、ウドン粉が入っているらしくて、捨てるとナメクジみたいに跡が残ります。いやなアイスクリームだなァと思ったのですが、それを武田が随筆に書いたことがあります。
たまたま三島由紀夫さんがそれをお読みになられて肉マンを映画館に入って食べるというけど、ぼくにはああいうことはできないなァ、といわれたそうです。
武田は、巨人、大鵬、玉子焼き、それに桜のお花見に、鯛なども好きでした。
武田が脳血栓を患ったあとでしたけど、大江健三郎さんが私どもの家まで訪ねてくださったとき、大江さんが武田に、泰淳さんは映画が好きだというけれど、どういう人が好きですかと聞かれました。
すると武田は、そうだなあ、ジョン・ウエインが好きですと答えたので、大江さんも、アッと驚いておられたようで、とてもおかしかったものです。
巨人、大鵬、玉子焼きそのものといった人でした。私や娘に、何でもばかにしちゃいけませんよって、口癖のように言います。娘は、誰もばかにしてないのに、なんでそんなこと言うのかしらって、おかしそうにしていました。
武田は何にでも興味を示す人で、「嫌い」ということをあまり言ったことのない人です。そういえば、ポルノ映画を観て面白くない損したといったことはありましたね。ポルノも嫌いどころか、晩年はずいぶん観にかよったものです。面白くないといったのも、ポルノだからもっとすごいと期待したのに裏切られた、ということなのです。
武田は晩年めまいに悩まされていましたから、どこにいくにも私が付いてゆきました。ポルノ映画にも私が付添いです。三本立てのポルノ映画館は、たいてい地下です。切符売場は上にあって、お前が買えっていうので、私が二枚といって買って入ります。
ポルノは題名がすごいから、題名を見ただけで期待しちゃいます。私は女ですから、ポルノを観たからってどうということはないわけ。解剖学を観ているような感じですが、武田はいそいそと観に行っていました。
初めてポルノ映画を観たのは四年前の夏だったと思いますが、富士でお隣同士の大岡昇平さんご夫妻と私たち夫婦の四人で町まで遊びに出たときでした。それが動機となって東京に帰ってきてからも、渋谷へ行くと、ポルノをやってるというので行きました。
渋谷で東映ポルノを観ましたら、田中角栄をもじったすごく面白くて傑作な大奥ポルノがありました。それを観て大笑いして武田は病みつきになったそうです。その年は西洋ポルノとか、三本立とか、週に一ぺんぐらい、せっせとポルノを観に通いました。
だいたいいつも期待外れで裏切られましたが、「痴女絶叫」という映画は今でも印象に残っております。それから漢字四文字の題名だといいのではないか、と二人でずいぶん試してはがっかりしました。
ポルノは題名のつけ方がうまいですねえ。安倍公房さんの「砂の女」をもじって「砂利の女」と変えたりする天才がいるものですねえ。

無駄な抵抗

富士に五百坪ほど借地した土地があって、その借地料を上げると電話してきたとき、私は猛烈に反対しました。そうしたら武田は、例の無駄な抵抗はやめなさい、金を欲しがっている人が強い、どうしても欲しいという人は強いんだから、っていうわけです。無駄な抵抗はおやめなさい、と笑いながら武田はいうのですが、まだ私は無駄な抵抗をやろうとして、今年の夏も地元の役場にかけあったりしに出かけました。
武田は署名運動が嫌いでした。こういうこと言うと差し障りがあるかもしれませんが、署名運動は一切しませんでした。ソルジェニーチィンのときも断りました。断るのに武田は電話へ出なくて、たいてい私が断る役でした。虎よ、吠えないで断ってこい、ということだったのでしょう。大根やほうれん草がすごく値上がりするでしょう。ビタミンが摂れないとか、栄養上とかから、ずいぶん高くなって困るのよ、と私がいいますと、武田は、高くなったら買わなきゃいいんだ、下がってから食えばいい、といいます。
そんなことを聞くときは、私は女房として致命的な何かを受けた感じがしました。主婦は値上げと闘わなければいけないという発想もありますが、私はただ高くなったら買わないことに決めました。でも、大根だったら他のものを食べていればいいけど、石油ショックのときみたいに、ガス代が上がるからガスを使わなきゃいいんだって言い切れるかどうか。それに、私はガソリンで走る車に武田を乗せていましたもの。象がちょっと鼻を振ったら、虎がひっくり返ったようなものです。
武田は自分では無駄なことをしない人でした。無駄の連続のような女房と暮らしていて、閉口だったのではないかと思います。自分では高ければ買わないという姿勢の人でしたし、自分の利得で動いたりする人では絶対にありませんでした。でも私のような女が側にいても嫌うことはなく、むしろ自分と異質の欲得で動いている人を面白がってみていたようです。
上品な人だったんじゃないでしょうか。お酒を飲んでないと恥ずかしくて人と話をすることもできないようなところがありました。娘にはできるだけ文学から遠ざけて育てようとして、手に職をつけた仕事をすることを望んだりしていました。その娘が、だんだん年頃になってくると、女房の私以外にもう一人女が家の中にいるみたいで恥ずかしいと思っていたらしいんです。娘の花子にもそれが伝わって、お互いにほとんど言葉を交わしませんでした。
最後にガンで死ぬときは、娘にだけはすぐ病状を知らせて私と二人で看病しました。恥ずかしがり屋で、おしっこも人の世話になるのをとてもいやがって絶対自分でやる、と頑張るのを、父ちゃん、肝臓病だから動いちゃだめ、と二人でやりました。娘はホーカーフェイスの人だから、欣喜雀躍してやっているふうに振る舞ってくれました。二人で心おきなく明るく看病できました。
病院の先生も看護婦さん方も、とても親切にして下さって、家を閉じて家族三人が病室で十三日間暮らしましたが、私たちをとりかこむようにして面倒をみて下さいました。南向きの陽のよくあたる病室で、武田はカーテンを昼も夜もあけ放しておいてくれというので、夜中もあけておきました。
強度の近眼だから、眼が覚めるとめがねをかけてくれといって、めがねをかけて南一面がみえるガラス戸越しに空だの向いの病室や手術室や屋上の煙とつなどを見ていました。夜になると東京タワーの一番上の展望台から上がキラキラネオンがついて、赤い灯りをつけた飛行機がゆっくり飛んでゆくのなどがみえました。
何を考えていたのかしら。ガンとは知らせませんでしたが、何となく死ぬことになるのではないかと思っていたかもしれませんねえ。でも、あとは昏々と長い間の疲れをひたすらいやすように眠っていて、死にました。
(文責編集部)

婦人公論76年12月号