猫と子供


漱石の『永日小品』に入っている『猫の墓』という文章が好きだ。

ものうさの度をある所まで通り越して、動かなければ淋しいが、動くと尚淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植え込みを見ているが、彼れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青みがかった青い瞳子を、ぼんやり一と所に落ち着けているのみである。彼れが家の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然と認めていなかったらしい。

といった、猫を観察する視線の行き届き方や、(自分の想像の軌跡を含めた)描写の面白さが素晴らしいが、何より好きなのは猫を取り巻く自分を含めた家族たちを描写したこういう部分、

「おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻は至極冷淡である。自分もそのままにして放っておいた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。咽喉の所に大きな波をうたして、くしゃみとも、しゃくりともつかない苦しそうな音をさせる。苦しそうだけれども、やむをえないから、気がつくと表へ追い出す。でなければ畳の上でも、布団の上でも容赦なく汚す。」



「ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾に腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取りあげられる時に出すような唸り声を挙げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも齧られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢の袖を縫いだした。猫は折々唸っていた。」



「妻はわざわざその死態を見に行った。それから今までの冷淡に引き更えて急に騒ぎ出した。出入りの車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻起る宵あらんと認めた。車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いてくる。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷やかした。
小供も急に猫を可愛がりだした。墓標の左右に硝子の壜を二つ活けて、萩の花をたくさん挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が―自分はこの時書斎の窓から見ていた。―たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の滴りは、静かな夕暮れの中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤した。
猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れたことがない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。」


こうした描写の中の、家族それぞれの猫との距離の温度差や、自分本位に移ろいながら、かといって「それだけ」でもない、自他の心の動きを静かに見つめる、漱石の視線の在り方が好きだ。
自分は、mixiのトップに猫の写真を貼り付けているような愛猫家(のイメージ)がちょっと苦手だ。
さして親しくない知人から子供の写真が入った年賀状を貰うと、少しだけ困ったような気持ちになる時と同じように苦手。
猫や子供が可愛いのは当たり前。あなたもそう思うでしょう? という圧力のようなものを少しだけ感じる。



漱石のこの文章には、そうした自分と猫や子供の距離が、他人にとってもそうであるのが当たり前、といった我侭さがない。
むしろ、(そう書き、アピールしなくとも)温度差のある妻子の態度や、自分のいい加減さに対する、照れ交じりの受容を感じる。
本来、それぞれが我侭に出来てる、いろんな物に順番をつけ差別しながら生きてる生き物が他者と共存するってことは、自分の「優しさ」「正しさ」「誠実さ」をアピールし際限のない理解や配慮を自他に求めることではなく、こういうことではないのかな?



動物や子供との関係を綴った文章といえば、こういうのも印象に残っている。

もっとも、本を夢中で読んだりした経験はそれまでもある。大体子供向けの大きな活字の本だが、『アンクル・トムズ・ケビン』なんてのは面白かったな。今でも憶えているが、エヴァという白人の美少女が登場して、心優しく奴隷たちに接する。そのために奴隷たちは制度上の奴隷であるばかりでなく、心までエヴァに捧げてしまうのである。完全に支配するとはこういうことだと、子供の私にだって直感でわかるから、自分もエヴァのようになりたいと思い、なったときのことを空想して、恍惚というものを味わった。
空想というものは、奴隷を所有する楽しさと、自分が奴隷になったときの恐怖とを、一緒くたに味わえるから、一倍コクがあるかもしれない。で、奴隷解放をうたいながら、その裏で以上のような楽しみを与える。小説というのはそういうものだという認識を得た。
その影響で、私は、小学校の上級から中学にかけて、奴隷小説というものを探しては読みふけっていた時期がある。もちろん戦時中だし、どこにでもごろごろ転がっているわけではないが、古本屋を丹念に探すと、悪魔叢書的なものや、マイナーであざとい翻訳書などに、そういうものが混じっていたりする。
あざといものはたいていつまらない。ひとつ上品な仮面を持っている必要がある。けれども、作者にそういう楽しみを与える目的意識がないように思える本、たとえば家畜史の本だとか、愛犬や愛馬の物語などに、濃厚にそれが現われることがあるから油断がならない。
色川武大『乱歩中毒』

夏目漱石全集〈10〉 (ちくま文庫)

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