近藤信行「武田百合子さん」(「新潮」93年8月号)

先日、反古類を整理していたら、武田泰淳の「目まいのする散歩」その他の原稿が出てきた。題名と署名は泰淳さん。本文のほうは百合子夫人の手によって書きすすめられている。ところどころに作者の書きこみや推敲があったり、百合子さんの字で修正がくわえられている。あるときは、追加原稿として文中挿入の部分が速達で送られてきたことがあったが、それらの原稿をよみかえしていると、在りし日のお二人の共同作業が眼にみえるようであった。
前後まもないころ、百合子さんは神田神保町の酒場「らんぼお」につとめていた。泰淳さんの表現によると、禁制のチョコレートや菓子を卸しにきて、代金をもらうとすぐさまその場で客となって酒を呑む癖がつき、いつのまにか二階に住みついて働くようになったというのだ。おなじ口述の散歩シリーズの一篇「鬼姫の散歩」には、
「彼女は、酒豪でもアル中でもなかった。もしかしたら、お酒が好きではなかったかもしれない。ただ、終戦後、空腹のため、焼酎をコップでのむことを覚えたのである。
R酒房につとめていて、夕方になると空腹に耐えきれなくなる。立っていると脚がふるえてくる。そこで、客用の焼酎をキューッとのむと、満腹したような気分になる。勇気りんりんとして、眼が輝きだす。(中略)
もしも、空腹というものがなかったら、私たちは結婚しなかったかもしれない。空腹でなければ酒をのまないし、酒をのまなければ、私たちの行動は、さほど自由自在ではなかったであろう。」
これはまさしく「戦後」である。飢えと解放と自由を酒に託した一節とも読める。私は「らんぼお」に入ったことはなかった。小遣銭にとぼしい学生だったから入れるわけもない。あの路地の、「らんぼう」とは斜め向かいにあるラドリオという喫茶店に立ち寄るくらいだったが、当時の神保町の記憶をたどって敗戦後諸氏の回想録などを読むと、その情景が浮かんでくるような気がする。
武田泰淳さんに「未来の淫女」「女の部屋」など、「百合子さんもの」といえる作品作品のあることは知られている。というと私小説作家の作品をなぞらえて言うようだが、そうではない。武田泰淳の作風を「実に発して虚にいたる」と評したのは埴谷雄高氏だった。「百合子さんもの」という言葉も埴谷氏から出ている。学生時代に私は目黒書店刊行の『未来の淫女』(昭和ニ十六年五月)を購入して、その作風に衝撃をうけたが、いまそれをとりだしてみると、百合子さんの存在が泰淳さんの創作意欲をかきたて、その天性の芸術的性情が泰淳さんのこころを動かしたことがわかる。その小説集の巻末には「自作ノオト」と題する五ページの文章があって、泰淳さんはこころのうちを明かしている。「社会小説なるものを、野間宏君とは異つたやり方ででつちあげるのが、私の念願の一つ」とあり、馬屋光子的存在、光子的運命を身ぢかに感得したことが「私の創作(勇気といふには軽薄かも知れぬが)への衝動をあたへた」とある。そのうえで「彼女」は気ままに分裂して、連鎖反応を無限におこす原子核的人物となったと書いている。この本はお二人が正式に結婚した年の刊行。泰淳さんと百合子さんの神保町の出会いは、戦後文学史のなかで特筆すべき出来事であった。(筑摩版の全集になぜ『未来の淫女』を入れなかったかと聞いて、百合子さんに叱られたことがあったが)
鬼姫の散歩」には百合子さんがR酒房からS酒房に移るいきさつが描かれていて、「何のお世辞もいわず、ただ黙って坐ってのんでいるだけで、客の酒代をふやす技量を買われてであった」という一節がある。そのあとに(この原稿は、当の彼女が筆記しているくらいだから、プライバシー問題は発生しないと思う。)との書きこみがなされている。また深夜の神保町を酔っぱらってわめきながら行くところでは、「彼女の髪は黒く長く垂れていたので、私は、その髪をひっつかんで歩いたような記憶がある」とあって、(私が、ひっぱってと口述すると、彼女は、ひっつかんだのだ、といって訂正した。)との注記がくわえられていておもしろい。口述筆記という作業は並大抵のものではない。生前刊行の『目まいのする散歩』、歿後刊行の『上海の蛍』の二冊が、みごとなまとまりをみせたのは、ひとえに百合子さんの尽力によるものであった。
『目まいのする散歩』は昭和五十一年度の野間文芸賞を受けた。そのとき、泰淳さんはすでにこの世の人ではなかった。授賞式では百合子さんが受けられたが、ほんとうにうれしそうだった。そのときの埴谷雄高氏の講演「武田泰淳氏と百合子夫人」では「百合子さんの天衣無縫な芸術性の最初の発見者が武田君であったのであります。思索する優れた文学者と天性の芸術家が一緒に合作したのでありますから、これがりっぱな作品になったのはあたりまえであります」と友情のこもる、あたたかな讃辞が述べられている。
編集者として私がはじめて武田夫妻にお目にかかったのは、昭和三十二年の春、『貴族の階段』連載の打ち合せで目黒の長泉院にお訪ねしたときであった。先輩編集者につきそって二階の仕事場に上がってみると、机のまわりには酒瓶が林立していた。酒を起爆剤として作品を書くという武田さんの仕事ぶりを垣間みたような気がする。その日は午前中からビールを御馳走になって、ふらふらになって仕事にもどったことをおぼえている。武田夫妻の思い出には、いつも酒がつきまとっている。
それ以後、部署がかわってもさまざまなかたちでお世話になってきたが、百合子さんはお酒がはいるとたいへん陽気だった。
「泰淳はねェ、戸籍謄本をもって、私に結婚を申し込んできたのよ。おかしいわねェ」
こんなことを言って笑いころげている。泰淳さんのほうはソファーに足をなげだして、否定も肯定もせず、伏目がちに笑っているだけだった。
富士桜高原の山荘では、大学ノート五、六冊の日記帳をみせてもらったことがある。
「いっしょに書くって約束したけど、泰淳ははじめにちょっと書いただけ。しようがないから、わたしが書いているの。その日のことをそのまま書いてるだけだけど」
それが後の『富士日記』だった。観察者としての直感の鋭さ、記録者としての的確さ、そこには天真爛漫たる個性が躍動している。

五月二十八日、新聞で武田百合子さんの訃報に接した。翌日の長泉院での葬儀には、私は所用のため参列できなかった。娘の花さんにあてて速達でお悔みを述べると、数日して、花さんからつぎの返信があった。
「母に、病のこと入院のことは誰にも知らせてくれるなと云われておりましたので、どなたにもお知らせしませんでした。そのため皆様をお騒がせする結果になってしまいました。
父と同じ病で、同じように静かに亡くなりました。私と私の夫がずっと付き添い、看取りました。…」」

(「新潮」93年8月号)
当時、文芸誌に掲載された追悼文は、「別冊中央公論」の埴谷雄高のものと本文のみだった。