武田百合子「天児さんへ」

昨日、学校できいた話。ある種の魚は、はじめ雄として成熟する。それから雄の器官が退化して雌として成熟する。だから元は一つなのである。その雌とその雄が交尾して卵を産むんだって。実に妙な話だ。一生のうちに雄と雌を経験するわけだ。人間はもと魚だった。大昔、魚が陸に上ってきて棲みはじめたのである。うちにいるお母さんや妹の声がイヤだ。ぼくと結婚したがっているみたいだ。虫が胸一杯になっている。自分でよくわかる。力が遠くの方へかくれる。虫は夜もねないで起きている。ぼくは眠る。だからぼくはどうしても負ける。彼等は胸の中ばかりにいるのではないと思われる。ともかく虫が立派に生きている。だからぼくもこの世に生きている。たましいもなく生きていて、それでどうする。それでどうするといってもいっても、やっぱりたましいは出てこないじゃないか。ぼくはなんにも苦しんでいないんじゃないか?という考えで苦しむ。人には黙っている。こんな考えは、体を動かしてさえいれば、血の通っていない幽霊の苦しみのように、太陽に溶かされて消えて行く。しかし、じっとしていると、雨の雲のようにまた降りてくる。落ちついている夏の海と空。飛行機や人はうるさい。あすこに曳きあげられているボートにもいらいらする。自家中毒を起こしかかっている少年は、石を啖って癇をつのらせ、卒倒してしまった。
あのくらいの少年の躯の中には、どんなものがつまっているのだろう。私は男の子を生んだことがない。初夏の昼下り、塀越しに鬱蒼としたいぬぶな科の大樹から降ってくる花の匂いの下を、学帽の疵を光らせて、中学生がぼんやりと歩いてくる。私はすれちがって見送る。あのくらいの少年が気持ちわるい。

女装をするときは、どんな気持がしますか?
強靭な眼の動かし様をする人は、ふっと按摩さんの眼つきにもなったりする。笑うと、横須賀の無頼少年風であった。そして、サドマゾごっちゃまぜの、極めて男々しい答えが返ってきた。

白い大きな人の踊りを私は好きではない。東洋人の顔、東洋人の体で踊る人がいい。困ったような、情けないような、仕方ないような、ずる賢いような、うっすら笑いを漂わせ、解剖学の本のさし絵から抜け出してきたような体に血を通わせ、阿鼻叫喚を静かになまめかしく踊る人に、花束を。
あざみの花束なんかが似合うだろうか。

山海塾「月報」(79年)