帰省覚え書き

web日記やblogというのは、公開するのに調度良い内容というのが難しいけれど、今回は随分長くなった上に、ちょっと重くてプライベートな内容なので、そういうのが苦手な人はスルーしてください。
ただ、広く読んでいただきたくないわけではありません。ごく個人的なことから逃げすぎず、突き放しすぎずに書いていくことで、ともすればスルーしがちだけれど普遍に通じている内容に触れることができないかとも愚考しました。ご理解いただけたなら幸いです。





ここ数年、冠婚葬祭や年老いた親族の問題などで帰省する機会が増えてきた。
ずっと実家とは折り合いが良くなかったので、長い間定期的な帰省をしていなかったことと、こうしてまた地元との縁が復活してきた時期が、地方の沈滞があからさまになってきた時期と重なっていたこと、そして実家に不幸が続いた個人的な事情や両親の老いの印象が重なって、帰る度に胸に隙間風が吹くような寒々しい気持ちになっていたのだが、このところやっと、少し冷静になってきた気がする。
定期的に帰省しはじめた当初は、半ば義務感、半ば懺悔のような気持ちで実家にじっとしていたのだが、たまに帰ってきて一週間ばかりいても、結局自分にできることなど何もない。たかだか数年で我ながらずうずうしいもんだと思うが、目の前の不幸や問題をただ見ていることに疲れて、少しずつ町に出かけたり、人に会ったりするようになってきた。


福山、倉敷といった、少年時代にお世話になった近隣の駅前は、人の流れが郊外のモール等に移動すると共に、かなり寂れた印象になっていたが、それでもまだまだ、彼らなりの消費生活を楽しんでいることも感じる。店の並びも道行く人たちの風体も、東京に比べればそれぞれが分かりやすく類型的な分、チープで野暮ったいけれど、何でも自分独特のものでなければ意味が無いし、それが無理ならいっそまるごと放り出して無頓着になった方がマシだ、という肩肘張った態度でずっとやってきて、そんな同類とつばぜり合いを続けている自分には、そんな「程ほどさ」が大らかで心地よくも感じられる。
今回は久しぶりに倉敷の大原美術館や美観地区を散歩して来たのだが、こちらは町屋の保存の仕方や、カフェや雑貨屋なども、昔のような「いかにも観光地風」の大味なやり方でなく、それぞれに好きな人達が力を込めてマニアックに手作りでやってる空気が伝わってきて、ちょっと眩しかった。
町屋をリフォームした蟲文庫という古本屋で、今東光の『泥鰌おっ嬶ァ』を買い、同じく町屋を改築したカフェで旨いケーキを食べてきた。
実家や地元の荒涼と寒々しい空気と景色を、つかの間忘れられた。
同時に、そうであればあるほど、自分の両親の暮らしぶりと目の前の風景の温度差と断絶振りを思うと、どうしても不安定な気持ちにもなる。


こういうことを殊更強く感じる自分のナイーブさが恥ずかしいとも思うし、「荒涼と」とか「寒々しい」とか僕がたやすく表現してしまう場所にも、きっとそれはそれと受け入れて幸福に暮らしている人はいくらでもいる。
実際、田舎には「家族に乾杯」に登場するような、地に足の付いた生活を持ちながらも、いい感じに力の抜けたマイペースな人が多い。
同時に、狭く閉じた世間の中で人の顔色や場の空気ばかり読んでいる、自分の属している世間から外れた者や、立場の弱い者に対して躊躇無しに意地悪くなれるような、小ずるくてケチ臭いタイプの人間もまた多い。
少し家の周りを散歩しただけでも、すぐにそうした視線にぶつかる。
両親は、人間の線が細く生真面目で、地元に根付いていない分、外部社会のレールや正論を頼って、そこで優等生になることで逆転を狙おうとし、他のことをないがしろにした揚げ句に無理を通しきれずに失敗し、落胆のあまりすべてに悲観的になっている。
自業自得と言えば、まったく自業自得だ。だからこそ、その現実だけを見つめるのがつらい。それに、自分なりにレールをはずれたり、距離をとったりすることに慣れていない彼らは、自分の不幸を相対化する視野も、ではどうすればよかったのかを考えられるような見識も、初めから持ってはいない。
だから、今現在の不幸に閉じこもるように、日中から玄関に鍵をかけ、外界から目を閉ざし、テレビだけ観て暮らしている。
それでも、久しぶりに帰ってきた息子と、一所懸命にだんらんの時間を持とうとしてくれていることはわかる。
だが、出て来る話題は、近所や親戚の不幸や病気、そして自分たちの後悔と今後の不安ばかり。
今ある暗さに耐えるためには、外界の光は邪魔なのだ。そして、自分を否定したり変えたりする苦しみに耐えるくらいなら、現在の暗さの中で目を閉じていた方がいい。
子供の頃、「父さんも母さんも、俺たちのことはいいから、頼むから自分たち自身の人生を楽しんでくれ」と頼んでは、彼らの逆鱗にふれていたことを思い出す。彼らはもう、ずっと昔から、その場を心地よくしようという発想がなかった。そもそも、それがどういうものか想像できなかった。ずっと宿題に終われるような焦燥感と共に生きてきて、(手に入るはずだったのに)手に入れられなかったものに対する不満と絶望に執着して、時が止まっている。
そんな彼らの極端な生真面目さに幼、少年期を包囲され、妙な罪悪感に苦しめられてきた。
今だって、夫婦二人揃って、まだ体も動くんだから幸せじゃないか、なんてことを言ってみたくもなる。
しかし、年老いた二人に、不肖の息子が今更のように、気の持ちようを変えろなどと言ってみても、事態はまったく動かないことはわかりきっている。
子供にはまだ視野も力もなく、大人になった時には重大なことが決まってしまっている。自分にしろ両親にしろ、つくづく人間っていうのは変わらないものだなと思う。
変わらないままただくたびれて、何もなかったようにしおれ、忘れられていく。
何も出来ずに、ただその様子を目の当たりにしているのは、どうにも胸が塞ぐ。


しかし、こうしてエラそうに親の批評をしている自分は、彼らをそうした責任の大きな部分を、明らかに負っている。
そもそも、批評なんかしてる場合じゃない当事者なのだ。今すぐ彼らの前に、将来の物理的な不安が軽減するだけの、何百万だか、何千万だかの金を用意できれば、彼らの絶望の半分くらいは取り除けるはずだ。けれど、自分の甲斐性では到底無理だ。これは、自分の気持ちだけにこだわってやってきた、甘い了見の必然的な結果だ。


自分にとって両親以上に繋がりの深い母方の祖母に続いて、父方の祖母も脳梗塞で半身不随になり、施設に入った。
昨年暮れから肺炎を起こして危篤状態になったり、老耄のために無意識にベット上で暴れ、囲いに足をぶつけて骨折したりという事が続いて施設から病院に移され、父方の兄弟が交代で付き添っていた。
もう、年齢的には大往生と言っていいのだが、今回の帰省は祖母との別れの挨拶と、父の気持ちへの配慮という意図を持ってのものだった。それで、祖母が病院から施設に帰る日に、父の兄弟たちと共に見舞いに行ったのだが、すぐにうんざりしてしまった。とにかくその場の船頭が多すぎて、いちいちのことが中々前に進まない。
部屋の温度が高いから、施設の者にそれを伝えるかどうか。
着がえの衣類の数を申告しなければならないが、洗濯に持ち帰っている分の数が分からないのでどうするか。
父は長男なのだが、実際の祖母の面倒は近隣に住んでいる弟達が多くを担当している。けれど、島の古い世間の人間関係を引きずっているので、誰がイニシアチブを取るかが一向にはっきりしない。
冠婚葬祭をはじめ、実家の行事は一事が万事いつもこうだ。
こうした、田舎の人間関係の距離の近さが、都会育ちの人にはまったく通じない。
父は、ほとんど自給自足に近いような暮らしをしている島の実家から、長男としての期待を背負って大学に行き、勤め人になった。実質的な生活は実家からも故郷からも切り離されている一方で、どうしても長男であるという意識と罪悪感を捨てられない。そうしているうちに、自分の不始末で財産を失い、息子の一人を亡くした。故郷にも、母の実家である現住所にも生活の根を持てないまま、死を前にした祖母を施設に預け、遠くから手をつかねている。
父には、彼らの期待に充分に応えたという気持ちも、出来ることはちゃんとしてやれたという満足感もないだろう。そして、今更できることは何もない。
貧しかった子供時代に戻ったように、毎日ロクなものも喰わず、ほとんど火の気の無い部屋で、日がな一日イヤホンで短波放送を聞きながら、ほとんど寝込んだままの母と二人、布団を被ってテレビを観ている。それでも、心臓と糖尿のために、1日3回ウォーキングに出る。人の目を避けるように、殺風景な冬枯れの上を空っ風が吹き抜ける農道や、街路灯も無い真っ暗な河原の堤防を、硬い表情で黙々と何キロも欠かさず歩く。この、人としての芯の強さにだけは、本当にかなわないと思う。
父はこんなふうに仕事に向かい、求めた地位と世間の評価を手に入れてきた。それが、何故今こうした境遇にあるのか、気持ちの底の底ではわからないままだろう。けれどどこかで、これはすべてなるべくしてなったことのようにも感じているのではないか。父は何も言わないが、僕はそう思える。なんだか全部そらぞらしくて、結局本当にしっくりくるのは、例えどんなに暗くても自分の身についた過去だけだ。
いつも、じたばたはしているが、結局人間は変わらない。与えられた条件なりに、自分のしたいことしかしない。


自分にとって本当に大切なことをずっと先送りにしてきて(逆に、そればかりが気になって、他のことに手が付かないままずるずると今に至ったのかもしれないが…)、齢と共に今更どうしようもないことや、どうでもよくなったことばかりが増えていく。自分では、徐々に募る無常観とモチベーションの低下に苦しんでいるつもりだが、それが、自分の苦しさを誰かに認めて欲しいが、取るに足りないことのようで恥ずかしいと日々悩んでいた若い頃の不安と、どちらが苦しいかはわからない。自分も、過去から距離を取れるほどの居場所を作れずに、それを理由にして寄りかかっているだけなのかもしれない。
本当は、今だって「できるのにしない」ことだらけだし、結局その恥ずかしさは続いている。


大原美術館に行くのはほぼ20年ぶりくらいになる。
自分は大して絵が分かる人間ではないと思うが、それでも子供の頃観て印象に焼きついている絵というのは、それぞれに、或るものの見方や自分の感じ方を、一種奇形的に強調した様なドギツイ絵ばかりだったことを再確認し、同時に、当時はどうしてこんな美しくない絵を描く人がいるのかただ不思議だったのに、今は普通に楽しみ面白がれるようになっていることが、ちょっと感慨深かった。子供心にはまったくひっかかるものがなかった印象派の淡く美しい画風も、今は心地良い。そうした人間の幅や、それを形に定着させて刻みつけることにすべてをかけている人間たちの尋常じゃない足掻きや執念に触れると、なんだか慰められ、同時にそうした具体的な形をなかなか絞り込めず、持てないでいる自分のもどかしさが浮かび上がる。
自分には、まだ諦めも開き直りも、全然足りないようだ。
でも、機が満ちる日は来るんだろうか。


今回も、高校時代の旧友に会った。
彼は、早くから自分をはずれ者だと規定していた僕とは違って、線が細い分余計に多数や権威にストレートに憧れ、頑張ってその中に居ようとするタイプだった。古いアメリカンポップスと少女マンガが好きで、大学も一流校の英文科を目指して1浪していたが、その途中に突然親父さんが亡くなった。
家の事情が変わって進学を断念することになり、親戚のつてを頼って尼崎で電気工事の仕事をはじめた。ブルーカラー労働にすっきりハマるようなタイプでは全くなかったし、「どうしてこんなことに」という不遇感も強かっただろう。彼にとっては、本当に大きな挫折だったと思う。荒っぽい土地の空気にも、同僚のおっさん達にもまったく馴染めないまま、それでも自分から仕事や居場所を積極的に求めるような余裕も想像力も持てず、10年近くひたすら耐えた末に、実家に戻って半ば引きこもるように暮らしていた。そうしているうちに今度はお母さんが亡くなり、天涯孤独になった。僕達旧友連中も、連絡が取りづらくなって、何年も手をつかねて遠ざかっていた。
そうしているうちに、いつ、何がきっかけになったのか、プロテスタントの教会に通うようになったらしく、数年前弟が死んだ時に久しぶりに連絡をくれた。彼の表情からは不遇の色が消えて、目に見えて元気になっていた。「俺は不良クリスチャンだから」と、こちらに信仰を勧めたりはしないけれど、週1日休みがあるかどうかの薄給の激務の中、毎週日曜学校に通ったり、奉仕活動に参加したりを続けているらしい。
信仰を切実に求める人たちの集まりというのは、ある意味で不幸を前提とした人たちの集まりだとも言えるかもしれない。だから、通常の人間関係のように、相手に引け目を感じたり、遠ざかられることに怯えて一層孤独になるようなことがないだろうし、何よりそういう人たちはお互いに対して優しいだろう。
でも、そういう人たちにも、やはり最終的な、幸、不幸のばらつきはあるだろう。神に祈った結果、親族の病気が治る人もいれば、現象的には何の結果も出なかった人もいるはずだ。人と人の結びつきだけでは、その理不尽な断絶を救うことはできないし、ある意味より孤独にしてしまうはずだ。彼は、教会の温かい人間関係にも確かに救われているのだろうけれど、その表情からそれ以上のものを自分は感じた。
人間、最終的には明日のことはわからない。だから、それは神を信じて託す。そう決めている人間の強さのようなものを感じた。「明日のことを、思い煩うな、明日のことは明日自身が思い煩うだろう」その結果がどういうものであれ、その因果や幸、不幸を、個人が測り判断することなどできはしない。だから、人を超えた大きなものを信じると決めて、今日の無事を感謝し、自分に出来ることをやる。
お互いに日々の生活のリアリティに距離ができ、趣味に時間を割く余裕のない彼とは話題も途切れがちだったけれど、瀬戸内の地物がうまい魚料理屋に案内してくれて、チヌの塩焼きやメバル煮付けを二人で黙々と喰った。
こちらからはロクに楽しい話題も振れなかったのに、「恵みの時間でした。ありがとう。」とメールをくれた。


帰省のたびに、それぞれが、ぽつんぽつんと孤立して暮らしているように見える、地方の寒々しい風景に触れているうち、お互いを支えあう共同体の再生の必要を思う。けれど実感的に、どうしてもその中に自分や家族の場所を想像できなくて、最後のところで本気になりきれない。
鬱陶しいくらいに共同体の繋がりの濃かった頃から、やはり忘れられたように孤立した人達はいた。実家のはす向かいには昔から独身のおじさんが一人で住んでいたが、僕はまともに顔を見たことがないし、その暮らしぶりが家族の話題に上るのを聞いたこともない。小学校からの帰り、近道に通っていたドブ臭い裏路地で、ちょっと太めでぼんやりした風貌の男の子と、黒縁眼鏡をしたお母さんに毎日のように会っていたが、50メートルと離れていない彼らのことを家で話しても、素性がよく伝わって来ない。母親が国勢調査のアルバイトをしていた時、やはり一人暮らしの男性を訪問する際に付き添いを頼まれ、いかにもヤモメ暮らし風の散らかった部屋に埋もれるように、寝そべってテレビを観ているおじさんが怖かった記憶が鮮明に残っているが、今回その話をしてみても両親はあまり覚えておらず、関心も示さない。はす向かいのおじさんは、最近孤独死したのが見つかったそうだ。
自分では、それなりに孤独や孤立も味わい、他人のそれに対して多少は敏感なつもりの僕も、家族や友人が本当に辛い時には、何も出来なかったし、しなかった。
自分の限られた視野で、普遍的な現実を断定的に考えるのは不遜だとは思うけれど、それでも人間ってヤツは、つくづく自分のことにしか関心が無いし、自分の思いたいようにしか思わないもんだなと思う。


今回も、文化や消費の匂いで、寒々しい気分が随分と温まったし、安らいだ。
それでも、最終的には、それが手に入れられない人、受け入れる余裕の無い人をを孤独にするものだと思う。
自分は、それを超えるものを、広義の文学の言葉に求めてきた気がするが、やはりそのほとんどは、自分からも他者からも肯定されない、不定形で不安定な孤独を巧妙に切り捨てていると感じる。
個人的な言葉は、外界の生臭さや寒々しさとは無関係という顔で、個人的な悟りや、上品な生き方に閉じこもる。
社会正義を語る言葉は、差別や暴力を、いとも容易く反省し、否定し、「私はお前達よりも目が見えている」「悔い改めよ」と、誰かを指差す。
自分の中の「負の感情」を認めず、「自分くらいなら許される」と思い、自分の後ろ暗さから目を逸らし、それを他人の中に見つけると否定することで、そこから遠ざかったアピールし、自分もその気になる。
そして、相対的な「調度良い正義」をアピールできる「立ち位置」を奪い合う。むしろ、そのアピールに邪魔になるような不安定で切実なものを、先回りして否定することに躍起になっている。
自分を見張っている、絶対的な裁定者がいないという安心の中で、誤魔化しきれるとたかを括っている。
けれど、そこからこぼれ落ちた時には、救いがない。


僕はこういう形で、人というものを(当然自分を含めて)信用していない。
誰も信用しない、つまり人に期待しないと同時に、人を愛し優しくなれたらと思うけれど、人間を超えた大きなものを信じられないで、そんなことが可能なのかと思う。
人を平等に救うのは、人を超えたものだけだと思う。
友人が、本当にキリストや聖書の物語を信じているのかどうかはわからない。
ただ、「信じる」と決めていることは、はっきりと伝わってきた。
こういう人のあり方を、ただ無知だとか弱さだとかと片付けられる者を、少なくとも僕は浅はかでお目出度く、だからこそ傲慢な人間だと思う。
僕は、特定の信仰を持っていないし、おそらく「自分」が立ち塞がって、今後も余程の何かがない限り持つことは難しいと思う。
最後の最後まで追い詰められない限りは、快楽を追い、相対的な他人との勝ち負けに汲々とこだわり続けるだろう。
それでも、例えばかつての泥臭いオヤジたちが、不遇な現実やそれにまつわる負の感情ゆえにこそ、義理人情や任侠、男気を信じ、生きる支えにするように安っぽいプログラムピクチャーを観たように、長谷川伸の股旅ものや笠原和夫任侠映画勝新演じる八尾の朝吉親分の物語を切実に求めたように、人には信じるものが必要だと心から思う。