坪内祐三『ストリートワイズ』再読

坪内祐三『ストリートワイズ』再読。97年刊。オウムの地下鉄サリン事件と、その後の論争(サブカルメディアや若者の間で「大人になれ派」対「子供のままでいい派」とも呼ばれた)の余韻の中での初読だった。
当時は正直、オピニオンとしては微温的で迫力が足りないという感想を持ったが、自分なりに読書体験と人生の時間を重ねた今読むと非常に面白く、共感もしている。
本書のかなりの分量を費やして、坪内氏は人は生きる為に世界観を必要とすること、しかしそれを人間関係や価値体系に求めると、そこには否応なく権力が発生することを、福田恆存の言葉を引きながら書く。
そして、そこからの自由を担保するには、未知の偶然に出会う驚き、歓びを失わないこと。驚きと共に、未知の世界の広がりを体感し、自意識が消え世界の一部になるよろこびと謙虚さを忘れないことだと。
だから、消費社会の進展によるのっべりとした均質化や、マニュアル化が、偶然と未知を消していくことを悲しむ。
坪内氏の指摘と、個と全体(普遍性や正しさ)についての考え方は、現在のポリコレやアイデンティティ政治(の正義を信じる人々)への批判としても、そのまま芯を捉えるもので、今こそ、正気に戻るために読まれるべきだとも思った。

しかし一点、街や暮らしの変化(特に進歩や便利だと思われていることの負の側面、生活文化の細かな味わいの喪失)を意識することは重要だが、そこに個や生活の輪郭が失われていく原因をすべて求め過ぎることにも、罠があるのではないかと、更に情報化と消費社会が身も蓋もなく進展していく中で、福田恆存に尚、説得力を感じている自分は思う(そして、かつて彼が、同世代の間で流行していた神秘主義や特定のイデオロギーにはまりこまずに済んだのは、なにより現実の世間に居場所があり、それが本当にゆらぎはしないという意識(無意識)ありきだという、ことが勘定に入っていないのではないか、豊かな消費社会の優位を信じていたからでは無いのか、という疑問も残った)。
世界への畏怖や一体感の減少だけを言っていると、彼のいう戦後だって、自然の中でおてんとさんを信じていた時代に比べれば、とキリなく云うことだって出来てしまう。
しかし、人間が人間であり続ける限り、社会や環境がどう変わろうと、自分が他の者であり得ない、誰も人生は肩替わり出来ないという運命の偶然、環境と資質の化学変化が生む個別性は決して消えることはない。
僕達自身もまた、未知、不可知であることは、変わることはない。それは理不尽で不揃いな孤独であると同時に、生きる甲斐や誇り、他者への畏怖や留保の源泉でもあり続けるはずだ。