我が偽らざる現状認識

ユーモアのある人は物事の判断に余裕や留保があるから盲信に陥ることは無いとか、文化に精通している人は人の多面性を深く見つめているから一つの視点に捕らわれることが無いといった常套句が、現実にはまるで虚偽だったことを心底思い知らされ続けているここ数年。僕は出版業界で仕事をし、中央線沿線に暮らしているから、周囲や隣近所の人たちは、他の職業や一般の人たちに比べて相当に文化への関心が高く、また政治的にはほぼすべてが左翼ないしリベラルと言っていい。だから、強硬な態度であるか、一見のんびり趣味か仕事か曖昧な暮らしをしているかの違いはあっても、皆政府自民党(特に安倍政権)が大嫌いであり、積極的なフェミニストであり、憲法改正には絶対に反対だ。僕も、それなりに拗ね者だから国や大企業への不信は彼等の多く以上に強いし、イデオロギーに一丸となる人々を苦手だからフェミニズムやアイデンテティ政治には賛成しないが女性や性的マイノリティには優しくありたいとずっと思っているし、体育の時間や集団スポーツへの強制や熱狂が嫌いだから軍隊も戦争も子供の頃から勘弁してくれと思っている。しかし、自分のそうした偏りがはっきりしているから、人々の寄らば大樹な生き方はどうにも出来ないなとうんざりする程痛感しているし、多くの男女は僕などの想像を超えて性的に貪欲で放埒できっちり計算高いし、自分にもこの国にも力も発言力もロクに無いのだから、いざとなれば戦争だって(暗な形の戦争協力だって)起きる時は起きて巻き込まれてしまうんだろうなと感じてきた。
だから、そうした諸々にそ知らぬ顔で無いことのように、自分の善を疑わない(ことに意識してだか、無意識にだか決めている)人たちに、疑問を呈したり、ちょっと自分たちを飾りすぎじゃないか、権力や悪人を叩いていさえすれは良しで自分の内心や行動は棚上げっぱなしはあんまり無責任で狡いんじゃないか?という言動をしてしまうと、それはもの凄くネガティブで意地悪くケシカラン(そして和を乱し、敵を利する…)ということになってしまう。他の職業や地域の人々よりも、ずっと排他も拒絶もはっきりしている。
しかし、はっきりと熱くなったり、内心気持ちのシャッターを下ろした人だけで現在の価値観が出来上がっているかというと、そんなことはない。こうした世の良識や流行に反することをきっぱり口にしていると、仕事や日常の実際はともかく、公式に喧伝され通念として共有されている正義感や気分に、わざわざ水を差すような者は、厄介な変わり者か、おかしな思想を奉じているに違いないと、理屈や説明などまったく入る余地が無く察せられてしまい、皆遠巻きに遠ざかっていく。面倒に少しでも触れて、自分が周囲から浮いてしまう(自分の内心をそう感じるだけでさえ)ことを怖れる。
しかし、世の潮目が変われば誤解が解けるかというと、そんなことは無い。あらたな潮目や空気に敏感に、ごく自然に移行するだけで、それに信用ならなさをまた感じてしまうこちらは、相変わらず五月蝿い異物として浮き上がる。そして、みんなで一斉に変わるものだから、自分の世間から浮き上がらず脱落しさえしなければ、かつても今も自分が率先して一面的になっているなどとは思わないのだ。
こうした問題に対する方法を、口で云うのはごく易しい。皆周囲の空気や世間を気にしすぎず、留保を持って生きること。そうした自分の判断だって怪しいものなのだから、自分の考えにもまた留保を持っておくこと。そんな互いになるべく寛大に、裁いたり押し付けたりし過ぎないよう、規範に無批判に寄りかからないよう、善きことは自分で能動的に行うのを原則とすること。ただ、それだけのことなのだ。
しかし、ただこれだけのことが、空気や権威にどうしようもなく弱く、ことの正否よりも何よりもみんなから浮き上がらないことが重要で(ちょっとだけ個性を主張したいような場合には、より外れた者をスケープゴートや踏み台にして安全を図る)、勝手に生きて勝手に死ぬことがどうしても出来ない我が同胞たちには、まず不可能であることを全人生において痛感している(皆、如何ともし難く臆病な、体裁屋の内輪人間なのだ。開き直らず、いくらか悪者であることを認めることが、どうしても出来ないのだ…)。
諦めなるべく許しつつ、距離を持って自分一個の自由を出来る範囲で大事にするのがせいぜいだと。

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/03/01/071951

へ続く。