懐かしい人たちへの後ろめたさ

昔(個人的な感覚では昭和から平成にまたぐ頃まで。僕が住んでいたのは田舎だから、街場とは結構時差があるかもしれない)は。シニカルになれない、シニカルになることが気性に合わないタイプの人というのが、今よりずっと多かった。今でもそういう人は本当はたくさんいるかもしれないけど、割合がずっと多かったと思う。自分が生きている社会や環境を疑わず、何故?と深くは問わず、こういうもなだと呑み込んで、あるいは受け流して、実直に、またはおおらかに生きている人が多かった。
勿論一方で、陰口や噂話が大好きな、人間関係を操ったり、弱い者いじめをしたりが好きな、嫌な連中も多かった。シニカルになれない人たちというのは、そういう現実も深くは疑わないから、自分がいじめられたりしている時などには殆ど助けにはならないけれど、それでも僕はそうした人のいい人のことを嫌いでは無かった。むしろ、みんなが出来ることを出来なかったり、我慢がきかなかったりする、弱さの為に事実を掘り下げて穿ち見してしまう自分が恥ずかしかった。彼等のことが嫌いで無いのに、むしろ狡いタイプの人間に近い人の悪さが自分にはあるのではないかと悲しかった。
物事を合理的に進める為には、各々の立場や意見を鮮明にする為に、自我やエゴの輪郭をはっきりさせる必要が生じる(少なくとも、そうであるかに振る舞わなければならない)。また、そうなった方が、自分のような人間の内心を理解してもらいやすい気がする。みんながシニカルでない世の中では、今とは違って、互いの内面を掘り下げてさらしあうような会話をするような機会は殆ど無かったから。
でも、現代人には個を支えてくれる神様が居ないから、各々が勝手に独立して生きているわけでもない。結局、シニカルになれない人のいい人が少なくなって、狡くて冷たいタイプの人が増えただけてはないかという気もする。
無責任にならないために、各々がエゴをしっかり自覚し受け止めるべきだと考える自分だが、そうすることで人の良いおおらかな人たちの心を踏みにじっているような気持ちがどうしてもつきまとう。
紡木たくのマンガを読み返していると、特にそのことを思い出す。