人生のまわり道に教わる

よく聴いていたミュージシャンたちが次々に亡くなりはじめて、彼等を思い出すと共に、自信なくあてどない気持ちで、いちばんロックにのめり込んでいた頃の記憶が蘇ってきている。
ロックといっても、様々な価値観やスタイルが群雄割拠していて、若い聴き手たちもそれに強く入れ込んでアイデンテティの保証を求めているから、実質は排他的な価値観の戦争のような様相も強く含んでいる。若者文化は水商売のように変転が激しいから、毀誉褒貶の激しい対象を大切にしていると、辛い思いをすることも多い。
他人から批判されて傷付くというだけで無く、あるバンドに共感することが、あるバンドを否定する意味を含んでいる場合も多く、それはそれこれはこれと心に蓋をしたり割り切ったり、より新しい勢いのある対象に身軽に波乗り出来れば楽なのだが、本当に大切な気持ちについてはそうはいかず、さりとてそれに確固たる自信があるわけでは無いから苦しかった。
わかりやすいところでは、いったん広がった前向きなメッセージソングのブームが飽きられると「愛と自由の大安売り」なんてことを、誰も彼も常套句のように歌い、口にするようになった。かといって彼等がそれを切実に求めた結果の反語でもなく、それを必要としない覚悟があって言っていたわけでも無いのだが、シニカルな言葉はアタックが強く、時代の追い風で調子づいてもいたから、傷ついたし不安にもなった。
そして、自分の方も自分の言葉や姿勢に、まだ実も重量も伴っていないことをわかっていたから、そうした現実を背景にした強い言葉や認識と、逃げずに向き合い受け止めなければならないと、過剰に思い込んだり、自己否定に苦しんだりもした。
でも、後から考えると、そんな迷走や回り道も、必要なことだったと思っている。
自分にとって、なにが本当に大切で切実かに確信を持つためには、
人や自分の内心に向き合う角度と視野を広げることも必要だった。それを受け止めた上で、自分の人間観や、立場や姿勢を作っていくことには長い時間がかかる。今だってちっぽけで不完全な人間の認識であることは変わらないから、これで充分ということはないし、先の時間も限界も見えてきているなりに、それでも迷いと旅は続いているのだが、初心の記憶はやはり鮮烈だ。