それぞれの事情を取るに足りないと思わせる普遍的正義?の怖さ

いわゆる左翼の人と議論していて、相手が正面からの返答に詰まった時、「おまえ(あいつ)は、普通の人々に対しておかしなコンプレックスを持っているから、批判の鉾先が左翼に向かって来るのだ(そういう個人の歪みによる事情だから、聞くに値しない)」という反応を受けることが本当に多い。確かに僕は捨てるような形になった両親や故郷に対して、自分の事情や正否を置いても負い目のような感情は持ち続けている。また、たまたま自分の才能で、好きなことて何とか喰っていることについても、幸運を感じると共に、どこか申し訳ないような思いもある。そうした自分に思い上がってはいけないと思うし、そうした幸運を得る前の事情や気持ちを忘れず大事にしたいと思っている。
こうした各々の事情というのは、誰しもその人の資質との関係によって、人生に影を落としているものではないだろうか。それに向き合い、傾きを意識することは大切だとしても、それから完全に自由になることなど有り得ないのではないか。自分たち(ここでは左翼)の思想や方針にあわないものを、取るに足りない歪みだとご都合で切り捨ててよしというのは、彼等が普段批判している「自己責任」への押し付けととこが違うのだろうか?
また、そんなニュートラルで真っ白な状態をよしとする考え方こそ、僕は怖ろしいと思うのだが。
そうしたことを置いても、いわゆる庶民大衆(の思いや考え)が正義だとは僕はまったく考えないけれど、その事情は最大限に汲まなければならないと思っている。現に生きている人の資質や環境を無視して、正論などあり得るだろうか。あり得ると思い、自分たちの思う正義によって人の内心や価値観をコントロールできる、正義だから無条件に押し付け裁いて構わないという発想、感覚こそ傲慢で怖ろしいと思う。
たとえ最大公約数にとって合理的な判断、選択であっても、それは僕等のエゴを数の暴力で通し、押しつけている側面は決して免れないこと、どんな善政であっても政治とは常にそういうものであるということを、忘れてはならないと思っている。
完全に無垢で無傷な正義や被害者という立場など、この地上にはあり得ない(みんな、世の中が豊かだった頃には、実に軽々と口にしていたことだと思うのだが…)。