人生という丈夫な命の根が知らぬ間に緩んで、いつでも暗闇に浮き出しそうに思われる。(夏目漱石『三四郎』より)

先日の秋葉原の事件。
こういう事件の度に起こるマスコミやコメンテーターの浮き足立った狂騒に触れるのが本当に嫌なので、必要以上に目にしないように気をつけているのだが、適当にネットを眺めてるだけでも、どうしても視界に入り込んできて気が滅入る。


僕は昔から、孤独な労務者がテンぱって、銀行強盗を起こすような映画や、その予備軍が喜ぶような映画、例えば『タクシードライバー』や『TATTOO<刺青>あり』や『十階のモスキート』や『逃れの街』や『蘇える金狼』といった映画が好きで、雇用や格差の問題が深刻になっている現在に、どうしてこうした映画が出てこないのかがむしろ不思議だったり残念だったりするのだが、やはり今回の事件や、何年か前にあった池田小の宅間守の事件などには、正直うんざりした気持ちが先に立ってしまう。
彼らの気持ちがまったくわからないというのではなくて、無邪気な(だからこそ残酷な)子供や、つつがなくよろしくやってる一般市民といった、自分を阻害、放置しているにもかかわらず世の中からは「罪が無い」とされているものへの憎しみや、自分との間に力関係が存在しているのにそれが曖昧に見えなくなっている現実への漠然とした苛立ちというのは、正直かなりわかる気がする。
(確か何年か前、長谷川和彦監督も、おっさんが渋谷のスクランブル交差点で若者を射殺しまくるような映画を撮りたい、みたいなことを、ホームページか何処かで発言してたと思う)
けれども、というかだからこそ、そうした「本音」がむき出しになっていることのみっともなさ、寒々しさの方に、今は嫌気がさしてしまう。
ロマンが無さ過ぎて、映画になりようがない事件だと思ってしまう。


かつての(映画の登場人物も含めた)孤独な男たちの犯罪だって、身勝手な思い込みのみっともなさという点では五十歩百歩だと思うのに、どこからこの感想の違いが出てくるのか。
彼らを取り巻く「社会」の方に、もはや安定とか実感とか常識とかいったものが感じられなくなっているということが、自分の場合大きい気がしている。
マスコミでもネット上でも、「派遣社員」「単身者」といった犯人の出自から、現在の状況に原因を見出す論者と、犯人個人の資質の問題とする泥仕合が行われていて、この構図自体は何十年一日のものだと思うし、うんざりもしているのだが、正直、近年の地方や郊外の状況一般を見て感じた僕の実感を言えば、社会背景の問題は確実にあると思うし、この件での責任ということだけじゃなく、本気で検証、認識されるべきだと思う。
この世に生まれ、世間に揉まれて育って、働いて、子供を育てて、年老いて衰えて、徐々に次世代に取って代わられて死んで行く。そんな「運命」の流れのようなものの循環を、受け入れるべきごく自然なことと納得していくための形や経路が、バラバラに分解されてしまっているような頼りなさは、実はかなりの人に無意識に共有されているんじゃないか。
「どうせこれからロクなことにはならない」けど、そのために自分たちの暮らしを変えるのはもっとしんどいから、取りあえず惰性的な「刹那」に埋没して逃げ切ってしまおう、あるいは「破滅」は見ないで目を閉じていよう。そんな気分が曖昧に、うっすらと、しかし確実に蔓延している気がして仕方がない。
確かに、津山三十人殺しのようなテロ的暴発大量殺人は昔からあって、そこでは世間や共同体が犯人を追い詰めたわけだけれど、それが一方に確固として存在していたからこそ、それに息苦しさや反発を感じたり、犯人の孤独や運命の理不尽に肩入れしたりすることも、どこかで自分はできていた。
それが、現在はすべてを曖昧にしたまま、全体にヌルく立ち腐れているような印象を持っているから、どちらかというとそんな中でも何とか生活や人々との繋がりを築いて、淡々と生きていこうとする人たちの方に肩入れしてしまうし、はっきり被害者の理不尽な運命の方に同情、共感もし、怒りも感じる。


不器用で思い込みが強く、相手や周囲の空気を読みながらうまくコミュニケーションできない、今回の犯人のようなタイプの人間というのは、いつだって確実に一定数いる。犯人がネット上に残していたグルグルした書き込みを見て、自分の周囲にもかなり似たタイプ(敢えて言えば、ほとんど紙一重)の人間が何人か思い当たったし、実際にこうしたことをやれてしまうかどうかについては、資質がかなり大きいとも感じる。
ただ、そういう人間に向って、教育とかコミュニケーション力とか言ってみたって本当はしようがない(ネット上でも、彼がサブカル的な教養や、表現する喜びを知っていたら、こんなことにはならなかったんじゃないか、という意見を複数見かけたが、これも資質や環境を無視しすぎた言い分だと思うし、むしろそうしたことから阻害されてしまうような人間を存在を直視することこそ、彼らには必要だと思う)。
仕方がないとした上で、現実に彼らにどういう生きる場所があり得るのか、社会や各々がどう彼らと付き合うか、或いは付き合えないなりにどう抱え込んでいけるか、いけないかを考え、引き受けていくしかない。
共同体が崩れた現在、田舎や郊外でも、露骨な苛めや侮りは少なくなった分、彼らや、彼らを抱える個人が放置されがちになっていることは間違いないと思う(少し前、親子間の密室殺人みたいな事件が続いた時、自分の故郷の様子が重なって、仕事や日常を通した付き合いもなく、皆がポツンポツンと閉じこもって暮らしてるような状況だと、各々家の中がどうなってても誰も気付かないわな、とは思った)。
考えてみると、彼らが従事していた、身入りはあまりよくないけれど独りでできる仕事(例えば新聞配達とか)は、どんどん外国人労働者に取って代わられてるんだよな。
工場のライン工は、自分もよくバイトでやってたけど、取替え自在のバイトの現場は、「場」というものが出来ないんで融通か効かず、上も社内でかなり問題あるタイプの人が仕切っていて、会社も面倒くさいから放置しているので問題があっても意見の持って行き場がない。だから、大抵淀んでギスギスした空気が充満していた。


最近、リーマンやってる友達と話していて、彼が、

「ヒューマンスキル」って言葉がやたら使われるけど、これはつまり「揉め事を起こさないような人が欲しい」って意味で使われていんじゃないか。
本来、その辺の危機管理は管理職の領分で、はじめから「ヒューマンスキル」って言葉で、働く上で一番難しいところを雇用者に丸投げしちゃうのは、逆に言えば、雇用希望者が「ぼく、しんどいことはあまりしたくありません」って始めに宣言するのと一緒じゃないか。
ほどほどの人たちを雇って、育てて現場を作っていくのが会社なのに、その場限りの便利使いばっかり考えてるから、スキルも関係性も蓄えられず、現場がガタガタになる。

というふうな意味のことを言ってたのが、印象的だった。


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