前回の日記の補足と反省、そして高円寺デモについて


僕は、どちらかというと保守的な人間(政治的に保守というよりも、単に性根が古いタイプの人間)だから、政治的な主義主張の内容以上に、それを主張する上での振舞い方が気になる。
そして、その振舞い方こそが、思想であり文化だと思っている。
どれだけ立派なことを言っていようが、その人の口調や表情、振舞いを醜いと感じれば、信頼する気持ちにはなれない。
だから、普段の人間関係も、仕事で書く文章も(あるいは、こうしてプライベートで書くものも含めて)、そこへのこだわりが軸になる。
先日の、いきものがかり・水野さんへの悪罵に対する批判も、原発の是非以前に、自分と意見が異なる者、あるいは物の感じ方や行動の仕方に距離のある物を「敵」と見做し、矮小にレッテリングした上で、容赦なく悪罵を投げつける態度を、醜い振舞いだと思ったから書いた。
そうした卑怯な振舞いを、「自分は正しい側にいるのだから」「相手は(無自覚にも)それを邪魔しているのだから」と、正義感や被害者意識にかこつけて正当化してしまっている様子に、更に強い違和感を持った。


こうした僕の怒りに対して、差し迫った原発の危険や、被災者たちの痛みの前では小さなことではないか、優先順位を間違っているのではないかという批判を知人から貰った。
彼は地震の後、自治体が壊滅した地域への物資輸送が滞っているという情報を得ると、すぐに自前のトラックで被災地に向かった善意と行動力の人だ。原発に関しても、反対の手段を云々するよりもまず行動だと、積極的にデモにも参加し、それだけではなく自分たちの立場を代表するにする足る人物を模索したり、脱原発後の社会の在り方を真剣に考えたりもしている。気真面目さと繊細さ故に、正直付いていけない性急さを感じる部分も多々あるが、正義感と行動力を見上げるように尊敬している。
けれど、それでも尚、僕はこうした多くの反原発派の振舞いを、「大事の前の小事」「取るに足りないこと」とは思わないし、看過できない。こうした振舞い方を容認する人物や運動を、到底信頼することは出来ない。
原発の問題との向き合い方が足りない水野さんにも問題はあるのではないか」と、彼らの言動を許してしまうことは、「苛められる者にも原因はある」と平気でうそぶける者の態度と、本質的に何も変わらないと思う。
そういう「正義」や「集団」が、一時的にでも力を持つことは恐ろしいし、そんな形で「正義を実現した」と錯覚している群衆を、僕はどうにもしんどいと思う。
(一見まったく別の話だが、同様の理由で、このところよく目にする、自分の贅沢にいちいち「経済を廻すために敢えて…」と、前置きせずに居られない人々の貧乏臭さにはうんざりする。「自粛」とか「風評被害」といった卑怯な言い方で、個人に責任を押し付けるお上やマスコミのやり口と一緒。悪徳ひとつスマートに引き受けられないヘタレに、贅沢の味は分不相応だよ)


今、ネット等で政府や東電への悪罵を他のすべてに優先し、1オクターブ上ずった声と口調で叫んだり、同調しない者を脅し回っているような人達の多くに、僕は好感が持てない。とても信頼しようという気持ちになれない。
そして、原発に関する事情を調べようとすると、すぐにそうした悪罵やマイナスの感情の群れにぶつかることに、正直疲れ、うんざりしている。
ただ、そんなふうにヒートアップしているのは、実のところネット世論の一部やデモの現場だけで、世の中全般を見た時に、まだ趨勢が反原発脱原発にはっきり傾いているとは、到底言えないのが現状だと思う。
その中で僕自身、声の大きな人達への嫌悪感に巻き込まれて、多少バランスを欠いた物言いになってしまったのではないかと、少し反省している。
多くの人たちにとっては、僕の彼らへの批判、反論も、一部の「主義者」同志の、良く分からない内輪揉めのように映ってしまってはいなかったかと。


声高に反原発を言う人たちの多くが、現状を「差し迫った事態」だと言う。
けれど、本当に難しいのは、原発周辺に暮らす人たち以外にとって、現状はまだまったく「差し迫って」はいないという点だと思う。
放射能は漠然と不安だけれど、少なくとも「焦って立ちあがる」というところまでは行っていない。
そして、ほとんどの人々にとって、本当に差し迫った事態というのは、具体的に生活が立ち行くかなくなること、もっとはっきり言えば、「食うに困る」ということだ。
確かに、放射能は怖い。ただ、そのリスクがまだ、はっきりと日本全体を脅かすものではないのなら、できるだけ今の暮らし方を守りたいし、脅かされたくないというのが本音なのではないか。
自分が見る限りの印象でしかないけれど、原発を無くすことによって経済が極端に縮小する=貧乏になるなら、安全性を上げながら現状維持が良い、と積極的に明言はしないまでも、「それは無理だよ、社会がそれを許さない」という思い方で納得している人が、まだまだ多数だと思う。


これに対して、「放射能に汚染された日本は海外から差別される」「原子力に依存する日本は、国際世論の信用を失う」という脅し方も短期的には有効だろうが、それこそ差し迫った賃金や雇用の不安を前にすると、吹き飛んでしまう種類の恫喝、扇動でしかないとも思う。
敢えて言えば、「東京湾原発を作ってもいい」という石原都知事の言葉に、「道義的な説得力」の上でさえ負けていると思う。
だから、脱原発がリアリティを持つかどうかはひとえに、「貧乏になったとしても幸福な生き方」を、いかに説得力を持って示せるかにかかっていると僕は思う。
本当は、原発の是非以前にそう思っている。ひたすら効率を追う経済システムと砂粒の個による消費によって、なし崩しに拡大していく「イケイケどんどん」な社会ではなく、敢えてある程度の不便や貧乏を受け入れて、仕事や生活の場の共同性を立て直していく生き方、社会の在り方を選びたい。
自分がそうした社会の、現場の繋がりの中の当事者だと思えなければ、隣人を救うことを、不便や貧乏に耐えてでも優先しようという気持ちは起こりようがない。自分の孤独な生き方を超えるためにも、便利に依存し過ぎた暮らし方を見直していきたい。
大衆ではなく、庶民として生きたい。
生活者としての自分は、そこをこそまず最初に考えたいし、広義の文学者と自覚している自分の仕事では、そこに纏わる小さな葛藤や感情を、良いも悪いも余さず(時にはそうした持論を裏切り、覆すことも恐れず)書き尽くしていきたいと思う。


勿論、ネットでの意見表明とかデモといった方法を、自分はまったく否定しない。
(今のところ、そうした自分の仕事や暮らしをこそ、最優先にしたいと思うだけで)
けれど、そこでも少し気になっていることがある。
自分の古巣である高円寺での、素人の乱による反原発デモに、高円寺に住む自分の友人、知人の少なくない者が怒っている。
彼らは、僕のような頑固な保守的人間ではないし、デモの趣旨に反対しているわけでも決してない。むしろ、文化的放埓には自他ともに寛容で、原発には反対、そしてほとんどが先の選挙では脱原発を明言していた小池あきら氏に投票していた人たちだ。


まず彼らは、主催者である素人の乱の、これまでの高円寺での振舞いを快く思っていない。
デモの申請だけをしておいて、警備の中、たった数人で行進して警察を挑発してみたり、白昼商店街や住宅街の中で爆音の音楽を流したりといったことに疑問と反感を持っており、今回のデモもそういった主催者の悪ふざけ(と、彼らは受け取っている)に、事情を知らない多くの人たちが巻き込まれてしまったと感じている。
「選挙に行ってる場合じゃない」というスローガンも、この印象に油を注いでしまった。
主催者が本気で反原発を目指すつもりがあるのかどうかに疑問を持ち、また、ならば何故デモを政府官庁や東電本社前等ではなく、高円寺の街場で行うのかを訝っている。
そして何より、事前に商店街や、ほとんどの高円寺住民に事情を知らされることもなく、説得や挨拶もなくデモが行われ、爆音が鳴らされ、仕事や日常がストップし、深夜に及ぶ馬鹿騒ぎが続いたことに、本当に腹を立てている。


これは、僕のごく限られた知人の声に過ぎないけれど、地元において決して少数の声では無いと、正直感じている。
しかしマスメディアでは報じられないし、ネット等ではともすれば「原発の危険が差し迫り、現地の人々を傷つけている時に、デモに立ち上がった人々を迷惑がるエゴイスト」といった声が、いわゆるリベラルで情報感度の高い人々から発せられている。
しかし、地元のリアリティを無視して、そうした広がり方をする世論を、僕は軽薄で怖いと思う。常識で考えて、デモで原発がすぐに止まるとも思えない。そして上に書いたように、高円寺の人たちにとって、それはまだ仕事や暮らしを犠牲にする程差し迫ったことじゃない。
地元を説得し、妥協点を示す努力ひとつできないような姿勢では(そしてそれを、曖昧な正義に煽られた人々の声で、押し流してしまうようでは)、運動も社会変革も、一過性で脆弱なムーブメントに終わってしまうのではないか。


素人の乱は、調度僕が高円寺を出た頃、入れ替わるようにして活動を活発にして行った。
だから、僕は彼らのことを直には知らないし、好意も悪意も持っていない。
メディアを通した彼らの印象では、かつての寺山修司のように、世間の常識を異化する事、つまりはた迷惑なハプニングを仕掛けること、みんなを居心地悪くさせることそれ自体が、手段ではなく目的である人たちじゃないかと感じた。
今回の反原発デモも、もしかしたらその延長で行われているのかもしれない(少なくとも、高円寺の知人たちは、そういう認識を持っている)。
それ自体は彼らの自由ではあるが、そうした「アナーキーな振舞い」が、究極的な政治目標そのものだという姿勢を滲ませたまま「反原発」デモを行った場合、目的が曖昧に拡散されて、焦点を結ばなくなるのではないかという危惧を持つ。
「反原発」「脱原発」という共通の目的以外、各々の動機や主義主張は様々でいい。そして共通の目的のために手を結ぶためには、他の主張を抑え、意識して焦点を絞り込み、それを分かりやすくアピールする必要があると思う。


そして、どうしても高円寺でデモを行うと言うのであれば、地元の暮らしを大切に、協調と妥協点を探って欲しい。
そこをないがしろにする運動を、やはり僕は信頼できない。
「やつらは普通にデモをすれば古臭いと言い、サウンドデモをやれば迷惑だと言うような連中」だとか、「迷惑というなら阿波踊りだって迷惑だ」なんて発言も散見されたけれど、これは、政治的な主張で他者を説得しようとすることを、趣味や自己表現が許容されることと同次元に考える甘過ぎる態度だと思う。
そこで、安易に自分たちを正義の被害者にしてはいけない。
簡単に批判者を「敵」「やつら」と認定して、安直に憎悪のはけ口にする様な幼稚な振舞いに落ち込んで欲しくない。
相手に配慮し、伝える努力をしようという、自省、礼節、思いやりを保って欲しい。
(あるいは、もし「反原発」が彼らにとって二義的なものに過ぎないならば、寺山的パフォーマーにとっては、僕の言い分は甚だ見当違いかもしれないが…)


最後に、これだけは信用して欲しいのだけれど、僕にはデモに反対したり、妨害したりしたいという意図は全くない。
こうした歌舞伎者連中に対して、「気に入らないから出て行け」という態度は、まったく高円寺らしくないとも思う(同時に、趣味、信条の上で嫌い、批判することも、まったく自由だと思う)。
ただ、街場のコミュニティがちゃんと生きていて、かつ「移民」の街である「我が第二の故郷」高円寺に、たかがデモ程度のことで、冷たい相互不信が蔓延ることを寂しく思うだけだ。
本当に、頼むよ。


●寺山の親友山田太一の手による、テラヤマ的人物を山崎努が怪演、山田ドラマ的小市民家庭と激突する『早春スケッチブック