世間の中で書くことのジレンマ

基本的に自分は、全員一致の世間で不安な思いをしたり、曖昧な無責任を耐え難く思って自分や周囲を疑い考えてしまう少数の人(或いは、考え方の理路が必要になっている人のある時期)に向けて書いているのだけれど、まず僕自身がこうした世間の無責任を嫌いで苦しんでいるから、ついそれを越えた願望や強い主観に引きずられたり、直接そちらに向けて書いてしまいがちだ(そして、その無力を忘れてしまいがちだ)。
しかし、ある程度広範囲に発信できないと、必要としている人にも言葉が届かない。力が足りないといえばそれまでだけれど、このジレンマにはずっと苦しんでいる。
内心の深いところの話は、こうした僕等のような社会では直接発信するとそれだけで忌避されて(先入観で色がついて)しまいがちで、何か具体的な作品に託して書くと抵抗が少なく、日常の次元に閉じこめられたり、そこから切り離されたりせずに伝わりやすいことも経験的にわかっているのだけれど、それだとどうしても趣味やジャンルに強く限定されてしまって、やはり語りかける相手がちぐはくになるうらみがある。
こうしてあらためて書いているうちに、結局できることはすべてやる(やり続ける)しかないという結論に戻ってくるのだが…。

 

追記。

人は結局、全体を把握することはできないし、結局各々思いたいようにしか思わないというのは、どうしようもなく事実だろう。
けれど、だからこそ自分の不確かで狭い視界と認識を自覚しておくことが大切になるのだと思う。
自分にとって大切な人間に思いが通じていればそれでいい、とも半分は思っているが、気持ちが通じる者だけを大切にしているアンフェアも自覚しておきたい。
全体を把握できないかわりに、みんなで信じ共有している(そうすることによって共存が支えられている)最大公約数的な概念から、はみ出している個々の残余を、完全ではないなりに場所を与え向き合うのが、かつては宗教的なものの、そして今は広義の文学の役目だと思っている。