「公正な客観性」は存在しない(Twitterでの会話から)

僕は、正確には公正な客観性というのは存在しないと思っていて、人が社会にしろ他者にしろ全体を見通して把握することは不可能だと考えます。
この自覚を前提に生きることが、未知の部分への謙虚な姿勢を生んで、公正や客観を努力目標として持ち続けることを可能にすると考えているんです。
公正客観が可能であり、自分はそうしている、出来ているという錯覚は、傲慢な思い込みや思い上がりを生んでいると。
こういう言い方をすると、悲観的に絶望を語っているというふうに見えがちだけれど、そうではないんです。
言い方を変えると、俯瞰的に一つの真実を持てるという考え方や、そうした人たちが各々の体系を押し付け合って争うということを、僕は嫌いだし、現実を把握、認識する方法として、間違っているんじゃないかと思う。
戦争にしても何にしても、その人のいる場所や立場の数だけ現実があって、そうしたものがなるべく沢山語られることが、世界の認識を分厚くし、豊かにすると。
誰もが場所や立場による視野や感性の限界を持っているし、それから自由ではあり得ない。けれど、それを自覚して生きることが、自分の生きる場所や立場、仲間への誠実さと、他者への謙虚さを生むと。
僕が体系的なイデオロギーや、グローバリズムのような架空の全体から逆算して、正解を語れるという姿勢を嫌いなのは、こういう考え方が根っこにあるからなんです。それを超えて、全体とか未来に見通しが付けられると過信するような賢しらさが嫌なんですね。「わからないという方法」(橋本治)で行きたいなと。

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2022/12/16/114935

へ続く。