それでも、全員一致の心性は揺らがない気がする…(色川武大『鍵』の抜き書きから)

「…表面はすこしも実直ではないが、体質としては農耕人的で、まいとし、同じ場所で種をまき、やがて収穫を得る、その反復をつづけていくことを軸に生きている。雨が降ろうと槍が降ろうと、軸のところではそうしているだけである。そうして新しい、乃至は異なった事象に直面しても、ほとんど対処する術を知らず、ただ努めて揺れずに眺めているだけで、あとへあとへと問題をくりこしていく。したがって私が自分の身の内にひきこんで、本気で検討をはじめるのは、反復を非常に長く続けて、よかれあしかれ我が肉と化してあるようなことに限られるのである。それも非常に時間がかかる。なかなか諒承しないけれど、結局は、どういうふうに諒承するかということでとどまってしまう。私は自分の在りようというものに対して、攻めていくことをしない男である。それは劣等感として、いつも深く胸の中にある。にもかかわらず、自分が他の筋道らしきものに乗りかかったりすると非常な抵抗を覚える。結局のところ、自分の地所に満ち足りておらずとも、他のどんな所に移りたいとも思わない。私は見境いというものを持たない。自分も他人もごっちゃにしている。あの夜もこの夜も差異をつけていない。ただ、自分があり、あの夜の重要な経験があり、その他もろもろの自分の軌跡があるだけなのである」
色川武大『鍵』

こうしたモノローグを、非常に正確な自己省察として読んできたし、私小説の言葉を、簡単に一般化するのは乱暴、失礼な気がするけれど、昼間、世間の人の身の処し方や心性について考えていて、自分を含めた日本人一般の(特にコミュニティの成員としての)特性も、かなり正確に言い当てているんじゃないかと感じた。
自分と他者の間に見境いが無く、しかし一人率先して見境いをつけることには極度に臆病で。
他者性を曖昧に全員一致建て前にずるずる固執するのも、本音や立場を露わにするのを嫌うのも、何かの拍子に浮き上がって、周囲からそれを裁かれることを極度に怖れているからだろう。それくらいなら、現状維持のままみんなで衰退したり、滅びたりする方がずってマシなのだ。から、外圧でみんなで変わるならいいが、うっかり心を開いて自分一人浮き上がってしまってはかなわない。
堪え性が無く、すぐに集団のだらだらしたなし崩しの馴れ合いに苛立って投げ出してしまい、孤立している自分のような者でも、他者の内心に敏い気弱さや調子の良さの一方、本当に攻め込んだり、攻め込まれたりすることには相当に臆病だと思う。
書いていて、まだ漠然と一面的で言葉が足りない気がするが、それでも、変化の可能性を希望的に過信することを戒める気持ちが、こうしてすぐに沸いてくる。