定義の曖昧な言葉が当たり前に使われる現実とは何か

ネット右翼になった父」鈴木大介さんインタビュー 晩年に豹変した亡父、嫌悪感を乗り越え検証した結果は(好書好日)
https://news.yahoo.co.jp/articles/390adc8f97e0c12d9bcf7801b126db13301be72c

生真面目な好著だけれど、本当に正直に言えば、まだまだ「本を読むような人たち」の納得の域を出ていないと思う。
ネトウヨという言葉が当然のように口にされるようになって久しいけれど、それ以前に、右翼とは何か、左翼とは何か、自分の言葉で説明できる人がいったいどのくらいいるだろうか?定義が広くて曖昧な言葉を平気で使えるということは、ある思想や立場を自分で考え納得して選び、それに従って生きているのではなく、何となくその言葉がイイ者(ワル者)として使われている世間に所属し、その場の空気や不文律に従って生きているということではないか?
主観的には、一人一人は自分で考え判断しているつもりでいると思うけれど、人の感じ方というのは相当に多面的に揺れているものだ。たとえば自由と平等は多くの場面で対立しがちな概念だけれど、景気が良い時と悪い時、自分に余裕がある時と悪い時では、どちらをより優先したいかのバランスが変わる。余裕がある時は自分の自由な欲望を肯定したいが、そうでなくなると他者の勝手な都合を規制したくなる。その時々に今の自分をまともな感覚だと思っていたいし、それは人並みのことなのだから責められたくない。だから、右や左の権威が与えてくれる「社会的にこれが正しい」というお墨付きを頼りたくなり、後ろ盾にもする。多くの人たちの内心は、実際はそんなところではないだろうか。

ここ10年ほどで、世の中が経済的に傾いて徐々に不安になるまでは、多くの人たちは差し迫った暮らしや損得に関わること以外、政治や思想や正義になんて、切実な関心など持ったことは無かったはずだ。各々の楽しみや心地よさを求めることに忙しかったはずだ。せいぜいが、自分の幸福や快楽は肯定されるべきだから消費社会は肯定、その恩恵が行き届かない者がこの世界に存在しているのは知ってはいるけれど、誰だってまずは自分や周囲の日常を優先するのは当然だと思いたい、それを守るために深刻な利害が発生する政治や軍事の局面については、うっすらうしろめたいし考えても楽しくないから他人まかせにしておきたい、といったところが、あまり意識しないようにしていた本音だったのではないか。
まるで考えて来なかった政治、つまり自分と他者の都合をどう調停し、どの辺りを落とし所として共存を図るかということに、何の準備も無い者がいきなりまともに判断できるはずが無い。
今まで、嫌いだったり不快だったりする他者と切実に向き合うことが無く、自分の感じ方を肯定することしかしてこなかった消費個人主義社会のお客様達が、自分の損得や幸不幸が、他者と共有できるものとは限らないこと、社会的な正義や権利として公認されるとは限らないことを、なかなか納得出来ないのも当然だろう。不愉快な相手、不愉快な現実に耐えられず、むしろ耐えられないことに大義名分も欲しくなるだろう(「あなたの感想ですよね?」のフレーズが、賛否を問わず人々をムキにさせるのはそういうことだろう)。

さらに言えば、自分の立場や判断の基準になっていた地縁血縁の共同体、会社共同体といったものが、急速に解体されてしまったことが大きい。これは権力の都合云々というだけではなく、そうした鬱陶しいしがらみを嫌い、一人一人が個人的な自由や快楽を優先したかった結果だろう。
かつては、農林水産業者やおしなべて田舎の人たちは、農協や地元の代議士先生にお世話になっているから自民党に、対して工場労働者は組合の関係などから社会党に投票、という具合に、イデオロギー云々以前に、自分や所属する世間の利害を基準に支持政党を決めていた。
この本の著者は、父親が自分の仕事を認めてくれていなかったとショックを受けているけれど、僕などの世代の感覚だとこうした共同体とその利害が鮮明だったから、田舎の両親や会社勤めしている友人たちの感覚と、マスコミで評価される理想(世間ではなく社会的建て前による言説)が乖離していることなど当たり前で、よほどの有名人になるか、社会的な権威のある賞でも受賞するか、ベストセラー作家となって一財産得るかされるでもしない限り、評価などされるはずもないことは自明だった。
それが、地域や会社といった、自分の所属や立場という基盤が曖昧に崩れると共に、メディアを通して宣伝されるイメージによって、各々の好みで投票が行われるようになっていく。
加えて、ネットの普及によって、今まではせいぜいいくつかの新聞、テレビのいくつかのチャンネルの情報によっておおまかな社会観が共有されていたものが、そこで隠れていたものを直接目にする機会が増え、既成メディアの信用が揺らぐと共に、各々が自分の好みによって、付き合いたい者だけと付き合い、見たいものだけを見るようになっていった。結果、自分たちの感じ方が本当かどうか、それがどの程度広い普遍性を持っているかが誰にも確認困難になっていく。
こうなると、すべては曖昧なイメージ戦争になるから、どの立場の発信者も、少しでも受け手を煽り、自分たちの側に引き付けるために、扇情的な物の言い方をするようになる。それは、権威や力を失いつつあるテレビ、新聞なども同様だ。結果、冷静で地味でなるべく主観を挟まない(あるいは主観であることをはっきり明言する)報道やオピニオンは顧みられなくなり、あらゆるニュースや言説がワイドショーのように演出過剰に、曖昧に方向付けられるようになってしまった。もともと多くの人にとって定義曖昧だった右翼、左翼といった立場、概念が、もはやペラペラの記号のようなウヨとサヨになっていったなりゆきは、こういうことだろう。
僕らは自分の視野の届かないことを知るために、ずっと大メディアに頼るしかなかった。ネットの普及によって、そのフィクションがいくらか暴かれたけれど、だからといって無数に飛び交う情報や言説がどの程度正しく、またどの程度広い説得力を持っているのか、正確に判断する力など、本当は僕らには今もない。本当は大抵のことを今も他人任せに、その正否を本当に確認する手段などなく生きている。
だから今、僕らが少しでも理性的であろうとするならば、すべきことは、相手をウヨとかサヨとか陰謀論とか歴史修正とか、意味するところの甚だあやしい言葉でレッテリングしあい、自分(たち)の正しさを信じ込もうとすることではないはずだ。自分も社会もこのように不確かであることを、少しでも自覚し、留保しながら生きていくことだと思う。

 

10日追記。
たとえば自分の場合、両親はともかく祖父母たちは、戦時中にさんざん辛い目にあっていてもずっと皇室を思慕していたし、被差別部落民とか朝鮮人に対して「怖い」という経験的実感を伴う差別心を抜きがたく持ち暗にはっきり口にしていた。はじめから戦後民主主義教育で育った僕らにその感覚は無いから、「間違った」彼等に疑いなく批判がましいことを言って困惑させたりもした。彼等が正しいとは思わないまでも、それが後々心無かったなと思ったり。
そうした体験的な他者性の根っこが、著者のような人たちには思想の左右によらず、もうポッカリ失われていることをいつも痛感する。

陰謀論とか、歴史修正主義とか、マインドコントロールといった言葉を、屈託無く口にできてしまう人々への違和感。自分もまた社会的、教育的刷り込みに支えられて生きている自覚と留保を欠き、現行の通念の信者として排他的になる人々への違和感。