尾崎豊インタビュー「18歳の美形、マジメさと強引さと根暗と」(ロッキンオン84年8月号)

十七歳の地図』で昨年デビューし、最近行ったルイードのライブでは18才の新人とは思えない存在感あるパフォーマンスを展開した尾崎豊。すでに熱狂的なファンを獲得して、メジャーなブレイクも時間の問題と言われている。いわゆる口当たりのよいポップスを歌う新人が多いなか、時代錯誤とも思える硬派ぶりと生真面目さが注目されるシンガーである。

●中学から青学なの?

「いや区立で、練馬東中学校ってとこだったんです」

●練馬なの。田んぼがあって農協があるってイメージだね、練馬とか世田谷って。

「田んぼ、ありましたね。僕の小学校時代までは、農協もありましたよ。農協でオモチャもらってましたよ(笑)。いろんなキャラクターのオモチャをたまに配るんです」

●農協の練馬から青学ってかなりの落差があるみたいだけど(笑)。

「いや、青学を選んだのは偏差値と大学に続いているってのと共学だって事でなんです。共学が唯一の理由って噂もありますけど(笑)。都立は大学受験があるんで行きたくなかったんです」

●『15の夜』で友達と家出する話が歌われているけど、あれは本当の話?

「本当の話です。髪を切れってのがきっかけで、友達の一人が本当にメチャクチャな頭にされちゃったんです。それで皆んなで家出したんですけど一日で見つかっちゃって。翌日、朝礼の時、皆んな前に並ばされて、二度とこんな事はしないようにとか言われて、うなだれてましたね」

●青学へ入った時カルチャー・ショックはなかったですか。

「皆んな金を持ってる事に驚きました。普通学食でカップ・ラーメンすすっておなかいっぱいにするってのが高校生でしょ。ところが青学の連中は青山の喫茶店で食事して、しかも一緒のテーブル全員の分をおごってしまう。いつもおごられていましたけど(笑)。練馬の中学時代の友達は、腹が減ったからベビースター・ラーメンを買ってくるという、20円か30円でいかに腹をいっぱいにするかという世界でしたから」

●その青学から大学へ入る前に中退してしまったわけだけど、その辺の事はどう位置づけてるのかな。

「余り深く考えてないというか、人生なりゆきというか。他から見てたいへんな事も、当の本人からみれば、なりゆきだとしか言えない事って多いと思うんです。例えば僕の友達にお母さんが居なくてオヤジが飲んだくれという奴が居たんですけど、当人は『いや成りゆきだから』って感じで、だから俺はこうなんだとかなくななところはなかったし。そういうもんだと思うんです。同じように、学校を止めたという事を、何かそこに特別な思想が生まれてくるんじゃないかとか言われても、そうかなと逆に僕自身考えちゃうというか(笑)」

●その当時はバンドをやってなかったの。

「やってましたよ。コピー主体でしたけど。佐野元春とかアナーキーとか」

アナーキーって意外だけど。

「好きでしたね。高校一年の三学期に初めてアナーキーを聞いたんです。それまではあんなカッコしなきゃ音楽できねえのかよ、って感じだったんですけど、実際にレコード聞いてみたら、あっこんなこと言ってる、確かにこれも俺の思ってる事だ、とショックを受けました。パンクに対する考えかたもそれで変わりましたね。ただ聞いてる連中がファッションでとらえちゃってるのが残念ですね。普通のカッコしてても、もっとパンクできないのかという気持ちはあります」

●何故コピーでオリジナルはやらなかったんだろう。

「いや一応オリジナルも作っていたんですけど、皆んなの前ではやりたくなかったというか」

●何でまた。

「うーん、何ていうか、僕の言いたい事とか歌いたい事って、ある部分みんなに敬遠されるところがあって、かえってこんなところで俺がそうした事を歌うことによって勘違いされるんじゃないか、伝わらないんじゃないかという気持ちがあったんです。またバンドのメンバーにそうした事を伝えていく作業も難しかったし。だから結局やらなかったんです」

●あの生真面目さと多感な詩は理解されないという感じかな。

「そうですね。一度だけオリジナルをやろうと皆んなに聞かせたら、暗いとか、フォークとロックがごっちゃだね、とか訳わかんない事言われて(笑)」

●消費文化にどっぷりつかったポパイ世代としては完全なアウトサイダーなのかな。

「いや、皆んなそれぞれ内に秘めていると思うんですよ。ただそれを表に出さないだけで。僕はがまんできなくて表に出してしまうというだけなんじゃないかな。出せない時は一人家に閉じ込もって誰とも口をきかないとか、してましたけど。とにかく言いたいという気持ちは強くて言ってしまった後、なにあの人とか言われたりして」

●結構クラス会で積極的に発言するタイプだったんだ。

「そうですね。授業中に、授業があまりにもつまらなかったんで、さっと手を挙げて「先生はどういうポリシーで授業をやってるんだ、いったい僕に何を伝えたいんだ」と言ったら、皆んなシラーッとしちゃって、ぼくだけ浮いちゃって(笑)まずい、こりゃ生徒に訴えなくちゃと思って「お前ら、この授業面白いのか」と言ったら余計シラーッとして、そういうのの積みかさねで浮いてましたね。ただ後から、尾崎は偉いみたいな事を言ってくる奴もいて、皆んな持ってると思うんですよね」

●そういう時に詩ができるという事はないのかな。

「いや書きたいとは思って書くんだけどいつのまにか「銀色の雨が」とかなって(笑)「銀色の雨が2人でさみしいね」とかなって、あっ違うとか思って破いて捨てたりしてましたね(笑)」

●詩はかなり時間をかけて書くらしいけど。

「そうですね、ひとつの詩ができると別の見かたからもうひとつ書いて、他に中間からも書いて」

弁証法的なんだね(笑)

「そう、そう弁証法。正、反、合でしたよね。弁証法弁証法。それなんだよな」

尾崎豊の豊富な恋愛体験で一番印象的だったのは何んだろう。

「一度、5人の女性と同時につきあった事がありますね(笑)」

●何それ。

「いや、体力いりましたね。年上の人におごってもらって、そこで浮いた予算を次の娘に回したりして(笑)」

●もうちょっとシリアスな話はないの振られたとか。

「ありますよ。振られて一週間ぐらい部屋に閉じ込もって酒飲んで寝てたって事もありましたね。外に出るのは近所の酒屋に酒を買いに行くだけ。店の人に「また来てるわよ尾崎さん家の子、赤い顔して」とか言われて(笑)」

●そういう時に曲はできるのかな。

「『街の風景』とかできましたね」

●貴方のラブ・ソングは愛しているという直接的な相手への訴えかけより、愛とは何かといったものが多いけど。

「そうですね。例えば5人の女性とつき合っていた時も、愛しているという言葉だけでは信用してもらえなかったですからね、どの女性も(笑)。確かにそれはそうだと思うんですね。愛という形にしてもたくさんあるし、すごく不確かなものをしっかりと確立されたものとして扱っているけど、僕のなかでは、あるいはつきあっていたそれぞれ女性との間ではそうではなかった。だからどうしても愛って何だろうと思うわけです。葛藤が愛のような気もするし、安らぎこそそうだとも思うし、また男と女やることはひとつみたいなところもあったりして(笑)」

●次のアルバムは2枚組にしたいとか。

「ええ。僕の考えかたは、例えば『十七歳の地図』という曲があれば、全く逆の『十七歳の地図』が入ってなければ嘘だというものなんです。自分の中のいろいろな葛藤をちゃんと出したいんです。そうすると2枚組になっちゃうんですけど、レコード会社が何ていうかな(笑)」

(「ロッキンオン」84年8月号・インタビュー渋谷陽一)

 

85年のインタビュー

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/01/13/211631

ロッキンオンでの初めてのインタビュー。読者投稿をメインにした洋楽誌だったこの雑誌で、新人の日本人アーティストが大きくフィーチャーされるのは異例のこと。
練馬の中学から青山学院高等部に進んだことによる環境のギャップに既に注目している点、さすが大人の視野の広さと現実認識の厚みを感じる。「あなたのラブソングは、愛しているという訴えより、愛とは何かといったものが多い」という指摘も、まさに本質的だ。
尾崎のブレイク後、ロッキンオンは彼を追いながらも、急速な人気の拡大を「宗教的熱狂」と批判のニュアンスを込めて呼ぶ。80年代当時の価値相対主義ポストモダンやニューウエイブ的な価値観からの批評だが、これは当時の本誌の尾崎の否定を意味しない。ロックと聴き手の関係の切実さに力点を置いた雑誌と尾崎は当初相性がよく、読者の反響や注目度も高かった。
そういう意味で、パチパチで藤沢映子さんが書いていたファンの視点に近い温度の高い文章と、当時のロッキンオンとは当人たちが思っていたよりも(洋楽に対する知識や思い入れといったことを除けば)かなり近い位置にあったと思う。
むしろ、その後のロッキンオン(ジャパン)は、こうした対象と敢えて距離を取る批評性が失われ、かつて批判していたはずのGBやパチパチと相似形の、アーティストに寄った情緒一辺倒の誌面に流れ、やがて事実上単なるパブ雑誌と化して今に至る。
また、正義や情緒への相対化の視点はあったものの、吉本隆明を信奉する渋谷陽一の(ロックは時代から逃げられない)という言葉通り、曖昧な大衆性善説と市場全肯定の現在への必然的道のりは、批判的検証の必要大だと思う。