長谷川和彦論 追捕

今回掲載になった長谷川和彦論は去年の8月に書いたもので、まだ若松孝二監督の『実録・連合赤軍』は公開されていなかった。
しかし蓋を開けてみると強烈な傑作で、正直、二十年以上停滞が続いているゴジ版『連赤』は、さらに高いハードル超えを課されてしまった。
が、正直そのこと以前に、『連赤』が本当に彼に向いた題材であるかどうか、今もって固執する意味があるかどうかについて、疑問を感じる部分もある。
その辺のことを含め、本当に彼が撮るべき企画はこういうものではないか? について、ショートレビュー枠で追補しようとしたのだけれど、諸般の事情で流れてしまったので、以下に掲載します。
ゴジ論の続編として、是非ご一読を。




『虫けら太平記』 色川武大


若松孝二監督の『実録・連合赤軍』は凄い映画だった。自分のエゴや弱さをあくまで認めず突き進んだ人間達の失敗を、共感と怒りがない交ぜになった、静かなと緊張と距離感を貫いて撮り切った傑作だと思う。
ただ一点、彼らの尋常じゃないマジメさと、同志殺しの凄惨さだけをいきなり見せられた若い人は、現在の自分達ときっぱり切れた、狂気のカルト集団の悲劇としか見ないのでは、という危惧を持った。けれど、「正しさ」というものにどう向き合うべきかという問題は、ずっと保留されているだけで、僕達がそれを乗り越えたわけではない。この傑作を超えて尚、長谷川和彦が『連赤』に拘るならば、このことを現在に突きつけるものであって欲しいと思う。
しかし一方、「連赤」のようにクソ真面目に結論を急ぐタイプの人間達を描くことに、実はゴジは資質的に向かないんじゃないか、とも正直思う。むしろ、結論を徹底的に先延ばしして粘りまくるような人間をこそ、撮るべき人なんじゃないかと。


そんな彼に、是非撮って欲しい企画がある。彼の麻雀の師匠格でもある、阿佐田哲也こと色川武大の、最晩年の時代小説『虫けら太平記』。戦後の動乱期の記憶が遠くなり、阿佐田哲也名義のギャンブル小説の中で、アウトローをリアリティを持って成立させることが難しくなった色川が、幕末騒乱の時代を背景に借りることで、自身のテーマを存分に追求した一作だ。


主人公の百太郎は、関東近在の村の庄屋の妾の息子。村人達からは軽んじられ、肩身の狭い思いをしながら育った。
ところがある日、村を大洪水が襲う。大水の混乱の中、百太郎は庄屋と本妻の間に生まれた腹違いの兄が、金目当てに侍を殺す現場を目撃。この機会に彼は、自分の人生を変えたい一心で、主が百姓に殺されたことがバレると家督を失う武家の弱味を利用し、江戸での街暮らしを始める。
しかし、人別帳も何もない天涯孤独の身。いつ口封じのために消されるかも分からない。そこで彼は、とにかく生き延びるためには、一人でも多くの人間と繋がっておくことが最重要と考える。そして、同じく江戸に出奔していた兄と力を合わせようとするが、他人に軽んじられながら生きることに慣れている百太郎と違って気位の高い兄は、彼と横並びになること自体が気に入らず、むしろ事あるごとに百太郎を落とし入れようとする。
身寄りのない彼を受け入れてくれる友人や女も現われるが、彼らの好意に甘えていると、自分に降りかかる火の粉を彼らに浴びせることになる。身の安全を守り、かつ誰かに牛耳られ切らないために、様々な人間の弱味につけ込み、取り入り、危なくなると居場所を変えて振り出しに戻る。そんな一時凌ぎを繰り返しているうちに、胡散臭い生き方がそのまま身に染み付いてくる。優しく実直な友人や女達との距離は開く一方だ。
「普通の人間なら、過去があり、係累があり、なにか専門の職がある。それらをすべて口にできない。すると外に出ていって隣人と交際するのがためらわれる」「広い世間に、点のように、この一軒家だけが頼りで生きているような二人に、まっとうな暮らしができるだろうか。まっとうというのは、まっとうなところに生まれついた人間の生きる道筋ではないのか」
自分の「分」を超えたところに人生を築こうとして無理をすると孤独になる。だから更に無理を重ねる。無理な生き方は自分が望んだ贅沢でもあるのだが、この結果を自分の望んだものと言えるのかどうか、よくわからなくなってくる。とにかく今を生き延びなければならないから、一つの場所に腰を据えて自分の筋を作る余裕がない。しかし、必死に悪足掻きしているようで、自分の小さな間尺を超える生き方が出来ている気もまたしない。
阿佐田哲也を名乗る以前、井上志摩夫名義で書き捨てていた(かに見えていた)一短編を、最晩年になって長編へと展開させた本作には、あの『麻雀放浪記』のような、屹立した個人の戦いをピカレスクロマンとして描くような、爽快な読後感はまるでない。「娯楽小説」としては、むしろグダグダにさえ見えてしまう本作で、「心地よい嘘」を犠牲にして徹底的に描かれているのは、真に自由を求めることの困難と、取り留めのない頼りなさ、そして「この世に損得抜きの幸福やただ儲けなどありえない」という、数学のように無味乾燥な現実だ。


しかし色川自身は、「正直いって、私がお前の造物主だ、といって誰かが現われてきたら、相手の懐に飛び込んでいきたい気持ちもあるのですが」「自分の主人は自分、というだけでは、計器を使わないで盲目飛行をしているようなもので、これはどうも不安定なんですね」と、時に頼りなさを口にしながらも、以下のように自分の立場を定め貫いた。
「(外部の絶対的な規範ではなく)心というものを軸にしている以上、バランスが必要になります。どんなことであろうと、いつもバランスをとっちゃう。バランスさえとれれば怖いものはない。正確な認識など必要ないのです。いや、必要ないとまではいいきれませんが、下手に認識にこだわって、玉葱の皮を剥くようにしていると、本人が望んでもいないこの世の終りが来てしまうかもしれません」「私は一貫して、交通信号に殉じて道を歩いてきませんでした。そのかわり、ある種の知覚が必要になります。綿密な配慮、思い込みの駆逐、度合いというものに対する感性」「決着をつけないで、保留しているという生き方も、がらくたばかりたまってしまってうっとうしいけれど、ただ保留だけしてうじうじしていればいいというわけじゃないぞ。決着をつけようとしない覚悟、保留以外の何物にも手を出さない覚悟、これが必要で、そうでなければ、一つの態度にはなりえないということ――」(『私の旧約聖書』)


「自意識」というのは多くの場合、「豊かさ」という余剰の上にだけ成り立つ贅沢だけれど、僕達の「主人」となってそれを律し、甘やかしてもくれていた一枚岩の社会が、バラバラに壊れる一方に見える現在。過酷な動乱期に身一つで、実直にも悪にも染まりきれず、あくまでそれを手放さず抱え続けた色川の本音が、破綻も矛盾も溜息も込みで、最も露骨に刻まれているとも言える本作を、「還暦過ぎのモラトリアム青年」であるゴジが、あの主観と体感を突き詰めるやり方で撮れば、時代に突き刺さる凄い映画ができると思うのだが。

本論
かけがえのない俺・長谷川和彦について
https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2022/12/30/204833