色川武大『疾駆』の抜き書きと後輩たちへのメモ

「もっともそれは、現実に即した考えではなくて、子供の怠惰な空想のようなもので、本物の劣等の世界を知っているわけでもなく、またそこにあまんじる覚悟も定まっていなかった。ただ自分でわかっているのは、唯々諾々と他人のいいなりにはなれそうもない、ということだった。しかし、他人を自由に動かすようなものでもない。
登校の道すがら、ふっと横道に曲がりこむと、それで落伍劣等の形がきまる。けれども落伍者の行先は用意されていない。私は主として、方々にある原ッぱで、道行く人たちから見えないように、草の茂みの中でしゃがんでいた。面白いことは何もなくて、ただ、一人ぼっちだという思いと、落伍したという自嘲の思いにさいなまれる。風の方向で、朝礼の鐘の音や、校歌を合唱する生徒たちの声がきこえたりする。
そのうち、孤独の思いにも馴染みが生じ、ぽつねんと何も考えずに長い時間をすごすことにもいくらか慣れた。原ッぱで一人で弁当を喰べたりする。
漠然と気にかかっていたことといえば、こんなことがいつまでできるだろうか、ということだった。成人してからも、一人でしゃがんでいられるような原ッぱみたいなものがあるだろうか。
あるわけはない、と思えた。今だって、露見しないから居られるだけで、劣等に同化できず、優等でもない自分だけの世界なんてあるとは思えない。早晩、いずれかの世界に所属しなければならなくなるだろう。
果てしなくそのことばかり考えた。その結果、自分はどういう大人にもなれそうもない、という答がでた」
色川武大『疾駆』

こういう、どこにも居場所がないような頼りなさ、もっと正確にいえば、自分が酷く贅沢で我が儘なせいで、どんな世間にも耐えられないだけなのではないかという、不安な身の置きどころの無さは、いつまで経っても「そんな頃があった」という昔話にはならず、人生の基調低音のようになってしまった。そんな自分でも、こうして初老に近い年齢まで生きていて、子供の頃、若い頃に比べれば、随分気楽に生きているということだけは、今もどこかにきっといるだろう後輩たちに伝えておきたい気持ちだ。

 

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