(続)阿久悠『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』


前エントリhttp://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20071111#p1からの続き。

つまり、近頃語られる価値観とは、誰かの都合という意味である。世の傾向に抵抗せずに、変化を素直に受け入れなさいってことである。無駄な抵抗と思わせるために、都合を価値観と言い換える。
自分の生き方や信念や、好みに合おうが合うまいが、時代はこうなのだから、世界はこうなのだから、四の五の言わずに必死に喰いついてきなさいと、偉そうに命じる。その時に、切り札のように価値観を振りかざす。
非常に独善的でありながら、美味しいフレーズも用意されている。価値観の多様な時代で、それぞれがそれぞれに適した考えを選べばいいというのだが、これは大嘘である。(中略)多様なのは、次々と違った価値観が行列でやって来るというだけで、常に一列、つまり、目の前にあるのは回転寿司のネタのように一つだけなのである。その一つがもて囃される期間が短いので多様と思えるが、みんな同じものを選ぶ結果になっている。
(中略)金は箪笥に置くなと言う。しかし、銀行に預けても安心だとは限りませんよと識者が解説する。暗証番号を誕生日にするな、メモを残すな、スキミングされてもあんたのせいだよと平気で言う。
誰の都合かペイオフを最高の方策のように宣い、予防は自分でしろとストレスを掛けて来る。それが嫌なら株でも買え、ただし、自己責任だからしっかり勉強しろとは何という脅しか。
それをヘンだと思いながら人々は、価値観で曖昧に納得し欲も絡んで大人しくなっている。価値観で示される新しい生き方も、考えてみると、「今どき誰もやらない」「外国ではみんなこうよ」程度の理論武装だから、柔順になることはないのだ。
(「今どき誰もやらないわよと だって外国はこうなのよが 唯一の理論武装ではね」)


そして、時は移り、絶対ある筈のないことが起こり、人間社会の中で最も欠けたものは「常識」であるという時代になった。常識がない世は、信じて省略する部分がないということである。全部理解か全部拒絶かの関係で、人々はギスギスする。
常識が消えた。こうなると非常識の天下になり、超常識も無意味になる。だから、今、先鋭的な芸術家や論客になろうとするなら、常識を語ることである。壊そうとして壊れず、無関心で壊れたのが「人の世の常識」であった。
(「51%の常識と 30%の非常識と 19%の超常識が社会である」)

「今はこういう時代だ」「これからはこうなる」「だからすぐにこうしないと怖いことになるぞ!」
こんなふうに、必要以上に煽ってくるヤツは信用ならないと思う。
しかし不思議なことに、「説教」を毛嫌いするようなヤツに限って、こういう煽りには我先に乗り、自分も煽る側に回ろうとする。
考えることは立ち止まることだけれど、立ち止まると出遅れる。だから正否は考えない。やった者勝ち、勝てばいいってことになる。
こうした、刹那的な生き方の積み重ねは、生きる脈絡の連続性を人から奪い、虚無へと誘う。


対して阿久悠は、自分の経験と体感、見てきた風景と生きてきた社会に依拠して語る。

風景というが、必ずしも景色の印象ではなく、たとえば父の姿、母のしぐさ、先生のことば、または、安らぐ空間としての部屋の一角、人の往き交う町の通り、子供で満ちた校庭のにぎわい、といったものがしっかりと焼きついている。つまり、かたちだ。そのかたちがあるからこそ、仮に問題があっても、血の通った言語で語り合うことが出来たのだ。
ところが今、論ずれば遠くなると感じるのは、原風景を持たない人間同士が、条項優先で語るからではあるまいか。答に幸福感がないのも当然のことである。
(「原風景をもたない子供には 人のかたちも 町のかたちも 国のかたちもわからない」)

時代が違う、老人の郷愁だといった揶揄が、すぐにも聞こえてきそうだ。
だいたい阿久悠こそが、昭和元禄の時代に数々のヒット曲を生み出し、テレビを通して人々を流行に駆り立て、古いものを壊してきた張本人じゃないか。
時代についていけなくなった衰弱した老人が、枯れて保守的な立場に回帰しただけじゃないかと。
勿論、俺はそうは思わない。
本書の元になった産経新聞の連載コラムを、阿久悠は「遺言のつもりで書いている」と語っていたらしい。
遠くない死を予感した人間が、己の全航程の曲折を振り返りながら、「自分にとっての真実」を、ありったけの技術を込めた考え抜いた言葉で投げかけてくれていると感じた。


勿論、時代は流れるし、それと共に、人は生き方を変えていかざるを得ない。
大抵の人間は、時代に完全に背を向けられるほど強靭じゃないから、必要に迫られれば新しい生き方と、そのテクニックを必死に覚える。不恰好な付け焼刃なりにも。
けれど、だからこそ大事なのは、その変化そのもの以上に「どう受け止めるか」、変化した状況の中で、自分はあえて何を守り、また何を捨てたのかを受け止めることだとも思う。
そうした意識と実感の積み重ねのことを「歴史」というのだと思うし、それだけが、いつだって頼りない現在進行形の人間を支えるのだと思う。

人々は時代の為に疲れきる。痩せる。それなのに、時代を縁切りに出来ない。無駄と知っても併走しようと頑張る。宿命だとも思っている。時代を見ることが進歩だとも思う。歩を急がせる。すると、時代を見て人を見なくなる。
だから、時代が過ぎたあと、追いきれなかった無念さと虚無だけが残り、敗北する。時代を恨む。時代を恨んでしまうと、もう老いである。
(中略)さて、ある時、ぼくは「時代おくれ」という詞を書いた。足早で傲慢な時代を見た結果である。追って追って、時に超えるほどに時代を称えていたのだが、この詞で、時代を見つつ、時代に流されるなと、言わなければならなくなった。二十年前である。今もその気持ちは変わらない。
(「時代を見るということは 時代のままになるな ということなのだ」)


俺自身は、彼のように人生をトータルして語るにはまだまだ早いし、そんな確信も到底ない。
生き延び、勝ち凌いでいくために、必死に時代に喰いつこうともし、まだまだフラフラと迷い、試行錯誤を続けていかなければならないと思っている。
けれどその時に、自分が本当に恥ずかしくならないよう、時には阿久悠が拒否したものを自分の原風景として鍛え上げる為にこそ、彼の言葉の手応えを支えとし、励みにしていきたいと思う。


しかし、書店の棚を見てると、本書と若い読者の出会いがなかなか難しそうで残念だ。
宣伝だの、マーケティングのテクニックって、こういう時にこそ駆使されるべきだと思うんだが。
一本ヒトネタ的なショートコラムだから、作詞家ならではのレトリックが生きてヴィヴィッドだし、そうした様々な場面が一筋の確かな人生観の元に収斂していて、全体としてはずっしりと重い。
色川武大『うらおもて人生録』、福田恒存『私の幸福論』などと並んで、切実に言葉を必要としているにもかかわらず活字世間の側が応じる誠実を放棄している、自己啓発本に搾取されているような人達にこそ届いて欲しい一冊。


立ち読み用
http://www.shinchosha.co.jp/book/470802/


清らかな厭世―言葉を失くした日本人へ

清らかな厭世―言葉を失くした日本人へ