『チ・ン・ピ・ラ』(84年 監督川島透)

bakuhatugoro2006-05-05


 

CSで久しぶりに、柴田恭兵ジョニー大倉の『チ・ン・ピ・ラ』を観た。
80年代邦画のベスト50を作って以来、猛烈に記憶が蘇ってずっと観たかったので、まさにグットタイミング。
俺はやっぱり、この映画は好きだ。
好きというより、愛している。
何かと言うと「リアリティがない」と当時も今も揶揄されるこの映画だけれど、自分にとってはこんなに80年代半ば当時の空気がリアルに蘇る映画もない。
競馬のノミ屋やりながら、カフェバーで狂言殺人アトラクションの小遣い稼ぎ。世話になってるやくざの借り物の外車を乗り回して若い女をナンパし、ワンルームマンションで輸入缶ビールをぐっとやる。
映画全体を包み込む、キラキラしたソフトフォーカス。
恭兵の、ミュージカルじみたキザ芝居の大仰さもあいまって、彼らの浮き草生活や、その欲望の現実感の無さが、時代を経た今観るとくっきりと浮かび上がるけれど、彼らが求める危うく、不安定な自由の眩しさと切実さが、当時調度10代だった俺には痛いほどわかる。


田舎の高校生やってた頃の自分たちには、この映画はお洒落で格好良かったけど、彼らのような、「その日その日を自由気ままにやる」暮らしを自分がやって楽しいかって考えた時に、内心、ただ不安定で寂しいだけじゃないかとも漠然と思った。
「フリーター」なんて言葉さえない、「自由」っていうのは日常の外にあるもので、でも、妥協せずにそれを求めることが正しいし、カッコイイと思われてたのがあの頃。
世間に縛られず、気ままに、胸張ってやっていきたい。
でも、そんなこといつまでも続くわけがないし、煮詰まって羽振りが悪くなれば女も逃げていく。
そんな軽さに好き好んで憧れて突っ張ってるんだから、誰を責めるわけにも行かないし、先のことは考えずにツッパリきるしかない。


後になって金子正次の人となりと作風を理解してみると当たり前の話だけど、表面のキラキラを取り除いて見ると、この映画はヤクザにもカタギにもなりきれないハンパ者が、齢をとり、じりじりと追い詰められていく話だ。
ヤクザでうまくやるにはナイーブ過ぎて、カタギの世間になじむにはギザギザした部分が邪魔になる。
こういうモチーフがリアリティを持って広く共感され、キラキラした夢として描かれたのは、まだ一枚岩の現実とそのしがらみがリアルに存在し、その一方で「自由」や「個性」や「青春」がまだ新鮮な憧れとして存在していて、そのダブルスタンダードの中で若い連中はナイーブに揺れていたからだろう。
俺たちがあこがれたこの「キラキラ」は、後になって見れば大袈裟で、薄っぺらなイメージでしかなかったかもしれないけれど、この映画はその切実さと輝きをきっちりフィルムに焼き付けた、立派な青春映画だと思う。
引き裂かれていて不安定な分、ウエットでナイーブで、後の世代からしてみると中途半端に重ったるくて野暮ったいかもしれないけれど、それは前後どの世代とも違う、この時代のオリジナルな感性だと思う。
だから「サブカル」じゃなく、青春映画なのだ。

川島透が数年後に撮った続編『ハワイアン・ドリーム』は、「アメリカ」に憧れて、憧れを愚直になぞろうとして自分たちの根拠を見失ってしまったようなカラッポなデキだった(失敗の仕方が、調度村上龍の映画みたい。でも、そういうはじめから「自分の根拠」に開き直れない故の失敗の仕方はよく理解できるし、ちょっとシンパシーもある)。
そして『あぶ刑事』は、俺たちにとっては恭兵が完全に「あっち側」に行ってしまった作品だった。軽さがヌルい様式になり、自由への切望も裏腹の孤独もなく、「関係ないね」とバブルの中で自己肯定するこのドラマを、ベタな言い方だけど「ロックじゃない」と思ったし、だから大嫌いだった(今は必ずしもそうでもないけれど)。


この映画で描かれたような揺れや孤独を手放さず、その後もこだわり追い詰めていったような同世代は、実のところとても少ない。
屈託無く懐かしみ、振り返ることができるようなタイプの人は、本当ははじめから安定した資質と立場の持ち主だし、繊細に反応してしまうようなタイプは、不安定さに堪えられなくて、その時代時代に通りのいい「文化」へと乗り換え、アガって行った。
唯一例外が紡木たくくらいか。
自分も折に触れて、この辺のことを書いてきたけれど、骨がらみ過ぎてなかなかうまくいかないし、ちゃんと読者に伝わっている手ごたえも今のところほとんどない。



『チ・ン・ピ・ラ』はヤクザにならずにチンピラでい続けるためにじたばたする若い衆の物語だったけど、いつの間にか「ヤクザ」に象徴されてたような一枚岩の世間の方が消えてしまった。
フリーターだのサブカルだのオタクだのといった言葉が一般的になるくらい、誰もが「大人」になることを強いられず、人それぞれの個人主義をはじめから前提のように生きているから、初めから「等身大」に開き直っているし、それ以上のものを敢えて求めない。
けれど、「集団の中の孤独」の頼りなさをきっちり潜り抜け、知っている人間じゃないと最終的には信じられないし、結局のところ本当の意味では話もできないと俺は思っている。