藤沢映子「尾崎豊ライブドキュメント」(パチパチ85年4月)

このごろ、「尾崎豊」が嫌いになっている。

「驚くべき10代」
「あふれる才能」
「新しい時代のオピニオンリーダー
「今いちばん注目のロックンローラー

最大限の賛辞を並べた雑誌のタイトル。もう息がつまりそう。

1月12日、東京ては初めてのホール・コンサートが行われた日本青年館
開演前のロビーでは朝の国電のホームのようにコートで着ぶくれした人、人の波。とくに招待者受付入口付近は、新年のあいさつをかわすいわゆる関係者のたまり場。
「いやあ、ここで新年のあいさつ、ぜんぶまとめてできてしまうほど、みんな来てるから助かるねえ」
タバコの煙がもうもうとたち込め、けい光灯の明りがかすんでいる。
200人は軽くたまっていただろうか。なんだかんだいいながら私もそのなかのひとりとして、「あ、どーも、あ、お久し振りです」と右や左へ首を振って、ステージへの心の準備どころじゃない。
復帰ツアーの初日、秋田のあのドキドキはどこにもない。

夜9時30分、楽屋の一室で、マスコミ用のビデオ試写が行われていた。「卒業」のプロモーション・ビデオだ。ただでさえ広くない細長い部屋の四すみに27インチのモニター・テレビが設置され、人の波がそれを取り巻く。
約10分間、誰もが画像に釘づけ。そして、一瞬、ふうーっ、というため息がもれ、大きな拍手。
そこへ尾崎が入ってきた。秋田の旅のときに見たのと同じいでたち。人ゴミを「ゴメンなすって」という片手を前へ出したしぐさでひょいひょいと分けて、部屋の上座へ歩いていく。表情は、ひとことでいうと笑顔。素人が大勢の人前でホメられて、どうしていいかわからなくてつくろってしまう、あの笑顔。
「ツアーをやってきて、自分ひとりじゃ何もできないことが分かりました。スタッフのおかげです」
サッポロ・カン・ビールを片手に、あの笑顔のままで、あいさつ。
こういう場での尾崎のことばは、ステージの10分の1も心に響いてこない。
「まあ形式だから、顔見せだから」
どっちもそんな慣れ合い。 
私は、こんな場での尾崎が嫌いだ。
それにしても、この人の波はいったいどうしたわけだろう。みんながみんな大絶賛。ホメたたえの洪水。まるで若きボブ・ディランが現れたような騒ぎだ。
そんななかで、唯一、私が気に入ったのは、たまたま私のとなりでコンサートを見ていた女性評論家のひとこと。
「初めて見たんだけど、尾崎クンって、歌がうまいのねー」
彼女はこういい残すと、アンコールを見ないで、さっさと帰ってしまった。

青年館から彼は、また地方に出た。そして最終日、2月7日札幌。教育文化会館の小ホールでのコンサート。
午後6時40分、12弦ギターをつまびきながら彼は「シェリー」を歌い始めた。この世界に入った不安を、彼女にではなく、客席に来ている彼、彼女の心めがけて、ド真ん中のストレート・ボールを放っていく。総立ちのなか、誰もが息をひそめてその直球をキャッチしようと真剣。
彼のステージは見ていて息を抜くところがない。単純にノレるロックン・ロールだって必死になって歌を追ってしまう。ポカリスエットをグイとひと飲みする姿も、ギターを持ち変える姿も。尾崎豊の叫びを体感したくて集まった人々。
「オレは最近思っている。人はどうしてやさしく包んであげなきゃいけないときに包んであげられなくて、強くしからなきゃいけないときにどうしてしかれないんだろう」
「傷つけた人々へ」を歌うときの彼は、とてもやさしい表情になる。インタビューでも、軽口をたたいているときにも、リハーサルやっているときにも決してのぞけない、ナチュラルな表情。それは、「僕が僕であるために」でものぞける。
曲が終わると、深々と頭を下げる尾崎。
「卒業」のイントロが、それだと分かると、かたずをのんで「反核の歌」に聴き入っていた客席が、つつましやかに沸いた。彼のピアノの弾き語りは、このツアー中、テクニックにくわしくない私の目にも、うまく映っていた。
「自由になりたくないかい、キミは思うように生きているかい?」
と叫ぶ「スクランブリング・ロックンロール」から「十七歳の地図へと続くスピード感あふれるナンバーに前へ押しかける人の波。こぶしをふり上げ、このとき彼は、17歳のギラギラした叫びを会場ごと共有する。
「15の夜」のハーモニカ・ソロ。アンコール「バーガー・ショップ」での投げキッス。同一人物と思えない表情の違い。そしてどれもが彼自身なのだ。
「ボクらの今回のツアーもきょうで終わります。でも、また必ずここに来ます!」
ハート・オブ・クラクションと尾崎がステージ横一列に並んで、深々とおじぎをした。
午後9時10分。ツアーは終わった。
そして、「卒業」がヒット・チャートの20位に初登場していた。
20位だって。
青年館のロビーに集まった人たちは、きっと飲み屋で20位を酒のさかなに飲むことだろう。息がまたつまりそう。でも幸いなことにここは札幌。しかも雪祭りの初日。大通り公園にズラリと並んだ氷の彫刻と、ツアーを組んで旗たててその間を見物する観客たち。彼らは、尾崎豊なんて誰も知らない。ホッとした。

インタビューの日、外は雨。
「今日は最低になっているんです。最低の気分でいろいろ話そうと思って…」
ーじゃ、ツアーの最低話を。
「岡山ですね」
ー聞くところによると、コンサートの3分の2くらいのところでステージからひけてしまったとか。
「ウン。いちばんの原因はMC(しゃべり)で、ボクはウケをねらったMCをいったわけ」
ーどんなこと?
「たこ焼きの話、知ってます?」
ーああ、「愛の消えた街」の前のMCね。
(オレたちが夜の街をふらついているときにオレはふとあることを目にしたんだ。中年のサラリーマンがタコ焼きを淋しそうに食ってたんだ。そのときオレは、それを見て、抱きしめたいような気持ちになった)
「ツアーの最初のうちは、このMCで笑わせようとは考えてなかったんです。それがやっていくうちに、みんな笑うから、ああ、笑うのが普通なんだろうなって思ったんです。それが岡山では誰も笑わなかった」
ーたったそれだけで?
「いや違うんです。その前にいろいろあるんです。自分はやりたいようにやればいいハズだって思ってやってきたなかで、やっぱりスタッフの人たちの意見も出てくるわけですよ。「お前、こういうふうにやったほうがいいよ」って。すると、自分はどうするのがホントは正しいかって。たとえばリハーサルでもスタッフがじっと見てるでしょ?まあ誰でもそうだけど、そういうのを見てると、ボクは誰のために歌おうとしてるんだろうって解らなくなるんですよ。それで、お客さんが逆に助けてくれるだろうって思ったんですね。やってる中で、きっと笑ったり、拍手したり、歓声とばしてくれたりして、きっとボクの心を救ってくれるだろうって思ったわけ。だけど、岡山のMCでは反応がなかったということで、自分自身で、もう何だかわかんなくなって、それでもう歌えなくなったというか…。

何本かのステージに接してみて、思っていたことがあった。他の誰のコンサートよりも尾崎のコンサートは、「待ってたぜ!」に近いニュアンスの熱烈歓迎コンサート。アーティストにとって、こんなにやりやすい場はない。甘え合うコンサートなんて、互いに傷口をなめ合ってるみたいで気持ち悪い。とくに尾崎にはそんなの似合わない。

ーじゃ、岡山の後からって変わった?
「ウン。形式みたいなものを考え始めたんです。自分で計算してやろうって思った。肩の力も抜けていったし、抜けたっていうか、こういうふうに歌えばあたりさわりがないだろう、みたいなことを考え始めたんです。自分のいいたいことだけストレートに、それも自信をもってやるには、前もって計算された台本みたいな中で自分を演じていれば、少しは自分の責任が回避できるみたいな…まあ、そこまではいやらしくないですけどね。そういった気持ちがどこかにあったんじゃないかって思うんです」
ー青年館もその1本?
「今では青年館も満足いくコンサートだったとは思わないんです。というのも、秋田で撮ったビデオを見たんですよ。一曲目の「シェリー」を見て、すごい爆発してるって感じがしたのね。よく考えると、今の「シェリー」はこんなんじゃないなって感じがしたの。バンドがはいらなきゃ歌えない気分があったときもあったしね。それで、ボクがホントにやらなくちゃいけない、みせなくちゃいけないものを新たに感じたんです」
ーそれはどういうもの?
「あがきみたいなものを見せられればいいんじゃないかなぁって。だから、青年館の後の名古屋、札幌、どっちもそれほど声が出るような日じゃなかったけど、一曲一曲、なんかホントに初めて曲作って歌い始めたころの気持ちに似てるような気持ちで歌えたんです。ボクは、本気で思いっきり歌ってる自分を見せていくこと以外にないんじゃないのかなあって…」
ーお客さんからの反応の手紙で、よくなかったっていうのあった?
「浜松を見た人の中に「あたし尾崎豊ってこの前見た者なんですが、思ったより迫力がなくてつまらなかった。また機会があって気が向いたらいきます」っていうのがあったんです。うるせぇなぁー、とか思ったんだけど、ちょうどそのころ、形式美みたいなのやろうとしてた年明けてからのコンサートだったから、それがなんかねぇ…」
ービデオとか、そういう手紙とかで新たに感じたんだ。
「ウン。でもね、ホントに何がよくて何が悪いのかわかんないと思う。もしかしたら全部よくないのかもしれないし…」

 

尾崎の歌は、どれをとっても、女々しい。これほど女々しい歌って、めずらしいほどに。スパッと割り切って、めくらめっぽうにつっ走れない。いつも、行きつ戻りつ。もうじれったくて、息がつまりそう。

ススキノの夜、尾崎は2件目の店で、コップに氷ナシで並々とつがれたバーボンウイスキーを、かけつけ3杯飲んで、ウエイトレスの女の子に抱きついた。その数分後、床にくずれ落ちて寝てしまった。

「えっ、そんなことしたんですか?ぜんぜん覚えてない」
ーお酒もったいないね。
「もったいないことをした、とは別に…多少そう思いますね。やっぱり(笑)」

お酒の飲み方も知らない尾崎。
それが若さの特権?ううん、きっと尾崎は25歳になっても30歳になっても、たぶん、40歳になってもこんなことを繰り返していそうだ。
なんてメチャクチャなだらしない男なんだろう…と思う。
ふと、ミック・ジャガーやロッド・スチュアートの数々のクレイジーな武勇伝を思い出した。
ひょっとしたら尾崎は、こんな型破りスケールの、愛する女から見たら最低の、スーパー・スター・サイズなのかもしれない。でも歌のなかではそれはまだ見えない。

彼はステージで、スピーカーによじ登って両手で投げキッスを乱発していた。
どうせやるなら、もう少しイキな投げキッスがあってもいいのに、彼のはただのチンピラの投げキッス。せっそうがなくて、品もない。それは、同じ世代の仲間と飲んでいるガキ大将の尾崎の姿と、唯一、オーバーラップする。
「サイテイ。そうかな、ボクは好きだけどね」
ふうん、そんなのガキのツッパリじゃないかな?

みんなは、聖少年で、傷つきやすく、悩み大き尾崎が好きなの?それとも、あまのじゃくな尾崎が好きなの?それとも『十七歳の地図』のなかの高校生の尾崎が好きなの?それとも、ルックスが好きなの?

先日、編集部に寄せられるハガキを見ていたら、こんなハガキをみつけた。
「「最も好むもの」というレポートの提出があって、尾崎豊について7枚書いて出しました。そしたら、先生が「レコード聴きたい」といってくれました!そして、私のレポートをプリントしてクラスのみんなに配ってくれました。これで先生に尾崎さんを知ってもらえました。それから教室の後ろに尾崎さんのLPの歌詞や情報などを貼っておいたら、みんな読んでくれてるみたいで、この前も、ある男の子から「レコード聴きたい」っていわれました。今、尾崎さんのメッセージが、少しずつだけど学校に広がりつつあります!でも私たち3月で卒業してしまうんです。後輩に「あとは頼みます!!です」
これはほんの一例として載せてみただけなのだけど、このくったくのないアプローチの仕方がとても気に入った。とくに「あとは頼みます!!」です、のところが。

尾崎は、その夜も酔いつぶれている。
「尾崎さんの『十七歳の地図』聴きました。私たちのこと、こんなによく分かってくれるのは尾崎さんだけです。どんな人なんでしょうね。きっと私みたいにウジウジしていなくて自分の主張がはっきりいえる、ステキな人なんでしょうね。これからも私たちの気持ち歌い続けていって下さいね。私は…」
めんめんとつづられたファン・レターの一通をポケットにつっ込んだまま、I・Wハーパーのグラスを傾けていた。というかビールのようにノドに流し込んでいた。
「オザキ!お前さ、きのうさァ…」
仲間の声がやけに遠く聞こえる。
「うるせえなぁー」
仲間にではなく、彼はひとりごとをつぶやく。そうつぶやいた瞬間、腕が同時に動いて目の前のグラスが、ガッシャーン!と心地良い破壊音をたてて自分の体にとび込んできた。
ポケットから半分のぞいていた手紙は、バーボン に洗われて、インクの文字が踊り始めていた。
十七歳の地図』もこうやって消えるものならどんなに楽だろう、ふと思った。
そこから先の記憶は、例によって一切ない。

間もなく、3月21日に、尾崎のセカンド・アルバム『回帰線』が発表される。全10曲。そのサンプル・テープは、46分カセットには収まり切れず、60分テープでギリギリ。今回のツアーで歌ってきた「シェリー」、「スクラップ・アレイ」、「BOW!」らが収められている。どれも、学校を退学した後に作ったナンバーばかり。そこには、17歳の尾崎豊はいない。

25歳の友人で、尾崎に狂っている男性がいる。彼は、スタッフと軽口を交わしている尾崎を見て、落ち込んでいた。
「彼も業界ズレしてきたんじゃない?ボクはあんな尾崎は嫌いだ」
といった。
彼は、色のついていない、社会を学校の中から見た、17歳の尾崎像を自分のなかで作って、それをまるで大事な宝物でも扱うようにかたくなに心にカギかけてしまい込んでいた。
「でも、売れたら尾崎も車を買うんだろうなあ。そんな彼も見たくない」

フツーの19歳の男の子と同じように、彼は去年の11月、免許を取得した。初日、お兄さんの車を借りて、埼玉からいきなり六本木にドライブ。そしていきなりのっけから追突されている。
「だってさ、むこうが勝手にぶつかってきたんだよぉー」
車はうしろのバンパーをへこませて、ちょっと無細工になっただけ。あ、その帰り、車庫で前のバンパーもこすっている。
「昔なんて、一回転の事故やったことあるし初めての運転のときは、兄キの車、家の前のコンクリート塀にぶつけて、大破させたし、それに比べたら、ねっ」
昔!?
ひとり暮らしを始めた今、お兄さんの車は使えない。
「大丈夫。常時、仲間の車が5台は軽く待機してるから」
まったく、なんてヤツだ。
尾崎に車は似合わない、というよりも尾崎に車は…に刃物だ。

だらしなくて、矛盾だらけで、チンピラでどうしようもない尾崎。大したことはまだ何もしていないただのシンガー・ソング・ライター。
ところが、やっかいなことに、これが人の心を打ってしまう。
自分のことで精いっぱい。人に迷惑いっぱい かけながらも周囲を巻き込んでいってしまう。
結果、偶像と、17歳の尾崎だけがどんどんひとり歩きしている今、だから、もう一度みつめ直す必要があるんじゃないかと思う。でないと、このままじゃ、息がつまってしまう。

 

(パチパチ85年4月・翌月より月刊化)

「パチパチ」はCBSソニー出版(後のソニーマガジンズ)発行の、ロック雑誌というよりも、「明星」や「平凡」を80年代風に洗練させたようなグラビア誌。そこに、藤沢さんの、ほとんどファンに近い、(テクニック的なことを除けば)仕事の領分を超えた思い入れや恋愛感情を孕んだレポートやインタビュー記事が載った。尾崎自身も、藤沢さんも、僕らファンも、そして日本のロックやその周辺丸ごとが、まだ経験や知識の蓄積が無く、互いの距離を計りかねていた。だから性急で乱暴な断言をしたり、自分の収拾が付かなくて相手におっかぶせて八つ当たりしたり、それで互いに傷ついたりもしていたと思う(少なくとも自分がそうだった。具体的なことをいうと、日本のロックのライブがまだ一般的で無かった当時、会場警備なども非常にアバウトで、記事内でも前列に殺到するファンの様子が描写されている。これが2年後のラフィンノーズの日比谷野音ライブの死亡事故によって、一気に管理が進む。ハードコアパンクのライブ会場の乱暴なノリが当たり前な古参の客と、ライブハウスになど行ったことも無かった新らしい客層が、急に一堂に会してしまった為に起きた混乱だったが、ロック関係者もそう冷静に認識できず、闇雲な反管理を目的化してしまったりもしていた)。
それを包括するような視点がまだどこにも無かったから、上下の世代(特に音楽ファン)には、メジャーからもマイナーからもはみ出したこういう未分化な生々しさを嫌い敬遠した人も多かったと思うけれど、こうしたあてど無さの中での体験まるごとを通した模索、試行錯誤は、ただ愚かな過去として忌避されるべきものではなく、ロックの、そして自分の原点だと思っている。そして、硬直しがちな安定の中でこそ、意識して持ち続けていくべき姿勢だとも。

 

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