藤沢映子「尾崎豊ロングインタビュー」(パチパチ86年2月号)

ディーンエイジャーということばの持つイメージは、せつなく、甘ずっぱい。大人たちがうらやまし気にみつめる若さの使い道に右往左往。青くて、持って行き場のないエネルギーを抱えたまんま、ワケもなく泣くことが多い。
家庭という最小規模の社会を経て二番目の社会、学校のなかにはなんとか身を置いているディーンエイジャー。家庭のこと、友達のこと、先生のこと…ちょっとしたことで死にたくなることは日常茶飯事。大人のものさしで測れば簡単に解決つくことが、つけられない。家庭と学校というふたつのものさししかないから、どんな言葉を覚え、教養を身につけたとしても、それはものさしの目盛りが細かくなるだけで、長さは変わらないような気がする。

「ボクがティーンエイジャーっていうものを卒業しなくちゃいけないな、と思いはじめたのはやっぱり学校をやめた時。そして、こういうふうに歌を歌いはじめた、いわゆるビジネスの世界に足を一歩踏み入れた時。
学生時代は、たとえば、親に縛られたり、学校だとか、先生だとかに縛られて、学校の時間割に合わせて自分をその生活に合わせていかなきゃいけないってことがあった。その学校をやめるってことは、まず、自分で時間割を決めて、自分で目標を決めて、自分でどんな人間になっていくのかを決めて…ということを考えなくちゃいけないんだなって思った。
それは最初、とても自由なことに思えたんだ。でも、やめてからちょうど2年くらいたつ間に、そのほうが、おもしろいことなんだけど、とてもつらいことなんだって気づいた。というのは、自分が望んでいるような人間像に自分が近づいていくためには、ボクが学校で反発していたことなどを、もう一度みつめ直してみる必要があるんだって気づいたからなんだ。例えば、中間テストや期末テストというような与えられたものをこなしていくためには、どれくらい集中力が必要だったかっていうことを、もう一度思い出してみることが、実社会の中で大切だったんだなあって。
いわゆる、学校自体、時間割とか、テストとか、授業ってものが悪かったのではないんじゃないかな。ボクが反発していたのは、先生とか、つまり対立するもの同士が分かり合うには、あまりにも互いの理解の仕方が少なかったことに対しての反発だったんだって思うんだ。
ボクも、ともすると、歌っていくなかで反発することだけにエネルギーが向かっていって、すべてが敵に見えてしまう時とかがすごくあった。でも、そうじゃなく、やっぱり闘うべきものは、自分の中の心であって、誰が悪いってせめる前に、自分の心をいましめなくちゃいけないことをすごく感じてる」

彼、尾崎豊は、85年11月28日、北海道は釧路で世間的にいう「ティーンエイジ」最後の日を迎えた。
その日は、雪だった。前日、雪のかけらもなかった広大な大地が、深夜から降り出した雪で、朝には一面の銀世界。快晴の明るさとは明らかに違う白い光が、ホテルのカーテン越しにも、雪を感知させてくれたという。

「雪っていうとイヤな想い出が多くて…。雪の中にいると、精神状態がおかしくなるんだ…」

よりによって、10代最後の日が、雪のなか。
目を覚ました瞬間、心のなかで、ため息つく姿が目に浮かぶようだった。
前夜は釧路でコンサート。そして、明日の室蘭のコンサートのために、この日は、釧路から札幌への移動だけの一日だった。雪のへい害は、移動の足にもやってきた。飛行機を使えば、釧路、札幌はたった40分。ところが飛行機は欠航。5時間もの長い列車の移動が待っていた」
「なんて地味な10代最後の日なんだァ!」

ひとつは、あまりこだわりたくはなかったけれど、やはり見ておきたかった伝えたかった、彼の10代最後と、20代最初のコンサート。
もうひとつは、26日の帯広、27日の釧路、29日の室蘭の北海道シリーズ3か所のいずれもが、チケットの売れゆきがかんばしくないという話を聞いたから。今、この時期、大阪球場、代々木オリンピック・プールまでをもクリアーした時に、空席のあるコンサートがある。それが妙に嬉しかった。
そして、最後の理由は、代々木を見た関係者の間で起こった「命をはる!」といい切った彼のことばに対する批判の声を、彼はどう受け止めているかを、その後のステージで確かめたかったから。
3つの理由を持って、27日の釧路に飛んだ。
彼は、あきれるほど元気にとび歩いていた。
さっきまで彼が遊んでいたホールの客席にチケットとパンフレットを抱えた人たちが座り始めたのは午後6時を少し回った頃。
やはり客席は5割の入り。1900人のキャパシティに800人だと聞いた。前日の帯広も同じだったという。
「いや、よく集まってくれたと思う。だって人口密度からいったら大入りと同じですよ」
スタッフがあっさりといった。代々木のときにみかけたそのまんまの活気を連れて、忙しそうに走り回っていた。
そして、尾崎も変わらない。代々木のときのまんまの輝きと、密度を連れて、ステージに立っていた。
「空席のあるコンサートについて」
の質問は、やめることにした。
去年のルイード終えた直後のインタビューを思い出したから。「はやく大ホールで何千人もの人を前に歌えるようになればいいね。
といったら、彼は、ちょっとうつ向いて、ひと呼吸置くと、視線をはずすことなく、
「ボクは、100人の前でやっても、武道館くらいの所でやってる気持ちでいるんです」
とハッキリいった。
普通なら、何をバカな、なんて自信家ととれることばも、この時は、
「ボクが歌を始めるキッカケになったのは、街の疎外感みたいなものを感じていたことからだったし、常にボクの頭の中には2万人、もしくは、日本の人口のすべてが、あるいは世界中の人々が、心にかかえている問題というものに対して、ボクができる唯一のやさしさみたいなものを投げかけられたらいいんじゃないかって思ってるから。そして、それをボクが精一杯歌うことによって、もう一度自分をみつめ直してみようとすることが生まれてくれば、ボクのやっていることの意義があると思うんです。だからボクは、その場限りで楽しければいいって音楽にはしたくない」
という説明の前に、とても納得できたのを覚えている。何もかえす言葉がなかった。
この夜も彼は、800人、ひとりひとりの瞳のなかに、かかわっているだろうその何百倍もの人たちをみつけていたのだと思う。
そして、「15の夜」のイントロの語りで、こう締めた。
「最近、ボクの仲間のひとりが死んでしまって…自分の弱さに負けて…そいつは俺なんかよりもずっと人あたりがいいヤツで、仲間も多かった。それなのに毎晩いっしょにいた俺たちですら、そいつの心の叫びを聞いてあげることができなかった。少なくとも、みんな、何かを守るために自分の心のなかの何かといつも闘っているんだと思う。
最近、こんなことを考えている。自分以外のすべての出来事が、自分を写す鏡のように思えてきた。それが自分にはね返ってきたとき、果たして本当に自分は人を愛しているだろうかって…自分がとても嫌な人間に見えて仕方なかった。人を愛するために自分は命をかけて人と接していかなければいけないんじゃないかって。少なくとも自分に何か与えてくれる人や、自分に触れ合う人に対して、自分を愛するのと同じように人を愛していかなければいけないんじゃないかと思ってる。
だから、少なくとも、そんな人のためには命を張っていきたいと思っている。これは、俺にとっては、もう大げさなことでもないんだ。失うものの多さに自分が負けてしまうかもしれない。だけど、人を愛するほうが、もっと大切なことなんじゃないかと思ってる。
今夜、ここに集まってくれて、どうもありがとう…」
「LAST・TEENAGE・APPEARANCE」とつけられたツアーは、この夜で終わった。

 

ーツアーの話からいこうか。「卒業」をオープニングに持ってきたのは?

尾崎「やっぱり10代に終わりをつげる意味がいちおうあった。あまり気にしないで歌いたいけど…」

ーツアーと少し離れるけど、「誰かのクラクション」出版したでしょ?その出版社に、とある学校の先生から、「あんなアーティストの本を出すとは何事だ!」って電話があったんだって。というのは、窓ガラス割った男子生徒がいて、「どうして割ったんだ?」って聞いたら、「オザキが歌ってるから」っていったというの。

尾崎「えー、そうなんだァ…。(この時、彼はとても悲しそうというか、つらそうな表情をした)なんともいいようがないけど…」

ー真似をすることで自分が前に進めるような勘違いって、あるんじゃないかな。

尾崎「表面的なものって、真似する必要はないような気がする。その子の気持ちの中に、反発とか、やり場のないものとかがあって、最終的に表現の手段がそれしかなかったってことならまだしも…。とりあえず割ろう、という考えはすごく良くないと思う。割ったあと自分はどうすべきかっていうことをちゃんと考えてやるべきだと思う」

ー「卒業」は、それがちゃんと出てるよね。

尾崎「うん」

ー話がソレたけど、ツアーに戻して、今回、バンドにキーボードが2人入ったのはなぜ?

尾崎「音色を厚くしたいというのがあったの。それと、ボク、ピアノの生音がすごく好きだから。以前までは、キーボードひとりってことで、ピアノを弾きながら、シンセ演ったりしなきゃいけなかったでしょ?やっぱりすごく忙しくて、ピアノのフレーズをひとりじゃ大切にできなかったと思うんだ。それで、今回は、ピアノだけと、シンセ類とにふたり欲しかったんだ。ひとつひとつのメロディを大切にしていく意味でね。

ー代々木でのしゃべりに、とても厳しい批判があるの知ってる?

尾崎「ウン。聞いてる」

ークサイ!というのと、「命をはる!」は右翼だという意見。私は、ツアー前のインタビューで「ボクはボクなんだっていうのを出していきたい」っていってたとおりになったなって思ったのね。あと、「出るくいは打たれる」じゃないけど、以前は、どこかにそのこと意識してたんじゃないかと思われる部分があったけど、そういう意見や、批判をも受け入れて、なおかつひとまわり大きくなって前に進むんだっていう決意のようなものを、あのしゃべりから感じたのね。「出すぎたくいは打たれようがない」じゃないけど(笑)

尾崎「ウーン…すごく良心的な取り方をすれば、そういう見方だと思う。そうとってもらうのが、ボクとしてはいちばん嬉しいんだけど…。
まあ、いろいろな取り方があっていいと思う。あのコンサートがボクのすべてだと思う人もなかにはいるだろうけど、ボクにとっては、新しいものをどんどん出していくプロセスのなかのひとつの過程であるわけだから。それが結果的に半分以下しか伝わらなかったってことが、プロとしての自覚のなかでは間違いかもしれない。でも、一個の人間が生きていくなかの生きざまとしては、間違いでもなんでもないような気がする。ひとつひとつの歌の中ですべてを読みとれる人はいないだろうし、ボクもすべては分からないし…。
ボクは、自分の命っていうものと引きかえに人を愛するということを覚えたというのをいいたかったんだけど、それがすごく偉そうに見えるっていう人がいる。ボクもわかるんだ。ボクも、昔、いったことがある。なんの脈絡もなく、そういうことをアーティストがいえば、やっぱり、「なんだこいつ」って思うかもしれない」

ー私は、ちゃんと脈絡あったと思う。人が自分を写す鏡だという話、愛するということ、笑顔の話と、つながっていて、その上に、なによりも新しいアルバムがそれを伝えている。そうでしょ?

尾崎「ウン。そうなんだ。アルバムを聞いてからコンサートに来てもらえていれば…。
ボクが曲を作り始めたときっていうのは、心を閉ざしている世界から始めたわけでしょ。そこから1枚目、2枚目と作ってきて、ボクは、3枚目のアルバムを作ったときに、心を開くということが大切なんじゃないかと思い始めたんだ。それで、これまでの世代とかいうのでしばらくしゃべったと思ったんだけど…。
いろんな反応があったということを聞いて、心を閉ざしている人、すべてのことに対して自信のない、形のない人たちにとっては、ああいったことばが危険なことばなんだなってことが分かった。これからは、もう少し、方向を変えてっていうわけじゃないけど、ことばを選んだり、分かりやすく、相手にやさしさを持って接するってことにしていきたい。

ー分からない人は、それでいいんだとは思わない?

尾崎「思わない。やっぱりいえない。
もしもボクが取材の人とかに、いわれたことに対して怒って席を立ったりしたら、何も残らないと思うんだ。その人が3枚目のアルバムを聞いて、もしかしたら分かってくれるかもしれないから。仮になおかつ疑問を持ち続けでも、やがて、そういう気持ちを持っている人間もいるんだなって、今のボクと同じように気づいてくれるかもしれない」

ー批判が出たことは、尾崎クンにとってはまたひとつ自分を写す鏡じゃないけど、良かったことなんだ。

尾崎「もっと身近なことでもあったんだ。「BOW」のなかで、「サラリーマンにはなりたかねえ」って歌っているじゃない?そしたら友達から、オザキはそういってるけど、俺はサラリーマンになってみたいっていわれたんだ。サラリーマンがどんなものかは、なってみなきゃわからないって。だから、オザキがそういうなら、俺はなってみたいってね。互いに本気で怒って、ケンカしあって論争した会話じゃないんだけど、ボクは、逆に友達としては嬉しかった。
つまり反発する人間っていうのは、ある意味では、違う方向で同じ位置にいるってことでしょ?相手よりやっぱり先に行かなきゃっていって、アイツがいってたことはどういうことだったんだろうということを、自分自身のなかで答えを出したいと思ったわけじゃない?常にそうだと思う」

ーコンサートにしても、単に楽しかったに終わらせたくない部分のひとつ?

尾崎「ウン。今回、いろんな反響のあるなかで、じゃあ、その先はどうなるのかって……コンサートの受け手側の人たちというのは、その先を自分自身に置き換えるのにすごく時間かかると思うんだ。だから、そういった意味では、送り手側の使命として、一歩先を行かなくちゃいけないんだっていう気持ちがすごくある。ひとつ、ひとつ…まあ」

ーひとつひとつ、サジェスションを投げかけていくみたいな?

尾崎「じゃなく、分かりやすくってニュアンスで…。
ボクのいおうとしていることとか、ボクが考えてたどりつこうとしている夢とか愛、真実とかってものは、今まで自分が学校や、生活してきたなかで学んできた愛や夢って価値観で判断してしまったら、絶対たどりつけないと思うんだ。それで、愛や真実というようなことをあからさまに言って話し合えるってことは、今の状況だとなかなかできないと思う。だから、それを待つように心がけていくことから、まず始まっていくんじゃないかな。自分自身がひとつでもそういうものを持っていれば、必ず何かに出会ったときに、パッと出てくる。ボク、そういうことよくあったの。学生時代、あまり人と話すの好きじゃなくて、「ひとりぼっちだ」って思ってた。だけど、ひとつの物事の入り口とかキッカケになるものを持ってたから、観念的な部分の話になると、やけに説得力のあることがしゃべれて、ちょっと信頼された、みたいなのがあった」

ーそういう時って、嬉しいでしょ?

尾崎「自分の存在価値みたいなのを、みつけることが、ちょっとだけできたな。でも、日頃の自分っていうのは、180度違う人間を出していきたいわけ。つまり、自暴自棄になったピエロみたいな、自分のおかしい部分を出そうとしていた時期があって、周りからは、結局は軽いヤツなんだって思われて、すごく悩んだこともあった。
ある意味で、こういった話ができるっていうのは、特殊な、貴重な時間だと思うし、することってあまりないでしょ?でも、なんかひとつのものを誰かとやっていこうとする時って、必ず、対人の壁にぶつかって、そういう話が出ると思う。だから、そのためにも、他人は自分を写す鏡っていうか、コミュニケーションしていくことが必要なんだと思う。
ただ、自分がレコード出す人間にならないで暮らしていたらどうなるだろうと思うと…たとえば、今やめてしまったら…とか考えることがあるのね。ボクはいったいどういうふうに暮らしたらいいんだろうって考えると、すごく途方に暮れてしまうことがある」

ー歌うことのキッカケやレコード出すキッカケがなかったらどうなってたと思う?

尾崎「大学生やってたかもしれないし…。
でも、やがては、ひとつの答えをみつけてたと思う。その答えっていうのは、一般常識みたいなものを理解する力のような気がする。ボクは、フツーはそういうのを持ってると思う。みんなも身につけていると思う。だから最近、物事のひとつひとつの道理が、昔より見えてきたような気がして、ここはこうすればいいだろうって、そこらへんふっ切れてきたような気がする」

ーただ、そうなった時に、「あれ?」っていう疑問を持たなくならない?

尾崎「それはあると思う。でも、例えば、大きな問題では、新入生殺しの事件とかをニュースで見ると、もし自分があの人の立場だったらどうだろうとか考えてしまうワケ」

ーどう考える?

尾崎「たいてい、殺される立場のほうを考えるけどさ、やっぱり立ち向かわなきゃいけないな、なんてね。でも、事件って、一瞬の間に、何の答えも出ない間に起こるじゃない?解決しようもない。なのに、一生懸命考え続けてるの。(笑)ただ、それがボクの大切なところだと思う」

ー精神的に危ないね。(笑)考えに考えて狂いそう。

尾崎「ウン。それに押しつぶされちゃう人間っていると思う。それは、やっぱり、一般常識ってことを、誰もが理解していくことというのを、理解せずに立ち向かっていこうとしるからじゃないかな。
確かに、必要なものって、一般常識よりも物事の真実だけど、まず、足元から固めていかなきゃいけないってことに気づかなきゃならない。ボク自身も少しずつ気づいていった。ある意味では、ボクなんかの演っていることっていうのは、すべての人が理解してくれることじゃない。それを理解させるには、やはり、相手を知らなきゃいけないだろうっていうことになる」

 

20歳の朝もまた雪だった。
札幌から室蘭へ向かう一行の大型バスは、スパイク・タイヤをはいていたにもかかわらず、凍結した路面を、何度かおしりを振りながら走った。
会場には、全国各地から「ハッピー・バースデー」の電報やプレゼントが届いていた。
そして、会場でも、
「尾崎さんがステージに現れたら、みんなでハッピーバースデーを歌いませんか」
というようなチラシが、数人の女の子の手で配られていた。
残念ながら、それは開演直前にスタッフに発覚してしまった。
「コンサートの進行のさまたげになるので、やるのならアンコールにやって下さい」
スタッフが淡々とマイクで告げた声が、チラシの彼女らにとっては、とても冷たいことばにとれたんじゃないだろうか。大人に押さえつけられた、と思ったかもしれない。
でも、ピアノ弾き語りの「卒業」から始まるステージのこと、尾崎のそのオープニングの張りつめた姿を思うと、やはり、アンコールあたりが望ましいと、スタッフは考える。たまたま同行していたファン・クラブを取りしきっているH嬢がポツリといった。
「もっと早く相談してくれれば、いっしょに考えたのに…。かわいそう…」
これもひとつの、ちょっとしたコミュニケーション不足だった。
みんなが同じ想いを持って集まっているハズのコンサートなのに、それでも誤解は出てくる。尾崎は、このことを何も知らずにステージに立った。が、尾崎は尾崎で、この日、いつもと違う自分がいることにとまどっていた。
「気にしないで歌いたい」といっていた「卒業」を歌い始めると、頭のなかを、学生時代の様々な想い、停学、退学で流した涙たちが一挙にフラッシュ・パックしてめぐっていた。
彼のなかの「卒業」は、思い出として語るのではなく、前進するためのものだった。だからこそ、想い出として語りたくないために、気にしないで歌ってきたし、そのつもりだった。
10代最後のコンサート、釧路でも、終了後の食事のときに、スタッフから、
「今日、10代最後のコンサートにカンパイ!」
という言葉が出て、初めて彼は、
「あ、そうか、最後だったんだァー」
と気づいたのに、20代最初のコンサートでは違っていた。
が、フラッシュバックするなかで、
「俺は、こうやって生きてきたんだ…」
と、思い出すことによって逆に考えることができた。
おかげで、この夜のしゃべりは、まとまりに欠けたものになった。彼自身が再考するなかでしゃべっているのだから、力強かった代々木とはおのずと違ってくる。
しかし、後半でいったひとことが、それらのとまどいを十分に補っていた。
「俺もようやくハタチになった。そして、10代の気持ちというものをもって大人の社会に入っていくと世代の違いで、だんだん分からなくなっていくことがあるかもしれない。ただ、俺は、いつまでも人を愛する気持ちや、自分自身が自分にとっての真実の道を歩いているかだけは、決して見失わずに、いつも自分の心の中の葛藤を続けていきたい」

 

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