状況と自分の相性に対する緊張感の反比例

自分では、随分速度は鈍ってはいるけれど、日々いろいろなことに驚いたりうろたえたりして、今もというか今更というか、いろいろ認識を新たに積み重ね、少しずつ成長しているようなつもりでいる。特に、コロナ禍や景気後退、ウォーキズムの俄かな蔓延などで思考が緊張し、風当たりも強いかわりに、普段にない充実をしているという実感も持っていた。ところが、ふとしたはずみで20年近くも前の自分の仕事を読み返して、今考えていることを、ずっと詳細に注意深く書いているのにぶつかったりすると、何だかがっかりしてしまう。自分の伸びしろが乏しくなったこともあるけれど、自分の資質に合わない世相の中で、言葉は届かず、気持ちや感じ方も共有出来ないことをごく当たり前のことと受け止めていたから、今よりずっと書くことに注意深く、緊張感もあったのかもしれない。むしろ、今の方が、状況に自分の資質や心境が下手に動悸し噛み合ってしまっているために、通じるはずのことが通じない欺瞞や、他者の甘えに苛立って、言葉が簡単になってしまっているのではないかと思った。
更に根本的なことを言えば、認識を確かにすることに必死なあまり、他者と競争して勝つことやその方法に、あまりにも無頓着だったなとも。面倒で、無意識に先送りにしっぱなしだったのかもしれないが、その点は今更自分の甘さと無能力に途方に暮れてしまう。