阿佐田哲也「兄弟分に」

昨夜、小島さんと某所で遭遇して、いちだんと贅肉のついた彼の腹のあたりを眺めているうちに、ずいぶん久しく彼と会っていないことに気が付いた。例の麻雀新撰組を解散して以来、人ごみの中でたまにチラリと顔を見るぐらいで、ほとんどしゃべる折りがない。
噂では、あいかわらずのフーテン中年らしいから、なにかといそがしくて男友達を思いおこすゆとりもないのであろう。またこのくらいフーテンに徹している人物も珍しいので、この点に関しては私などもけっして人後におちないつもりだが、その私が驚きを禁じえない。
陽気で、はしっこくて、ヴァイタリティ充分で、まわりに迷惑をかけ散らしながら、そのわりに嫌がられもせず、ごく甘ったれて生きている。本物のフーテンである以上、それもひとつの能力であろう。事実、一部のジャーナリズムがそういう小島さんを面白がっていて、そのおかげで彼のでたらめきわまる生活がなんとか保証されている。
しかし小島さん、まわりを面白がらせて、それで生きていくというのは実に危ぶない処世だ。私は苦言を呈する柄ではないし、叉私自身、しかつめらしい生き方を最上のものとは思っていないけれども、今の小島さんの処世を見ていると、自分の原資質をただ放出して人を笑わしているように見える。昨日と同じように今日も明日も他人を面白がらせるためには、放出の量をどんどん増やさねばならぬ。埋蔵している原資質がどこまでもつか。
おそらく小島さんは豊かな原資質の持主なのであろう。だから中年の今日までフーテンとしてなんとかやっていけるのであろう。放出量のバランスが崩れれば、騒がしくて迷惑をかけ散らす分だけマイナスで、普通なら軽業に類するが、それを苦もなくやっていくところがつけ焼き場ではないのである。
しかし、どんなバクチにも根本はセオリーがあるように、ピエロにはピエロのセオリーがある。人それぞれに、水面下に没して見えない、大きな、重要な部分があるものだが、ピエロは一見バランスを欠いているゆえに、水面下で逆の要素を増量して、水面の上と下それぞれアンバランスに見せながら、全体でバランスをとっていかねばならない。それでなくてはピエロとして大成しない。
私たちは今日、アンバランスなものにリアリティを感じる。しかしただのアンバランスだけではナンセンスである。そこのところがむずかしい。ひたむきなもの、初々しいもの、ひろびろとしたもの、優しさや怖れ、希望や困惑、そうしたものを不恰好なほど増量さす、それが作用と反作用のような関係で存在して表面の動きになっていく。それが本当のピエロである。
最後に小島さんの麻雀について一言。現在の小島さんの麻雀は、あきらかに堕落である。打筋が恣意的になっている。主観一方で、軽業的麻雀である。
もちろん麻雀に鋭い主観は必要だし、彼の主観が鋭くないというのでは決してないが、それとともに、実態は個人の主観よりもたいていはひろびろとしている。実態の大きさを感じ、鋭い主観とそれを葛藤させ、水面の上と下の関係とに似て、やむをえず主観に賭けてみる、そういう重みが彼の麻雀から消えている。かつて、知りあった頃、彼はもっと真摯であった。
それは、他の理由もあるが、近頃、ああこれでなんとか喰える、などと思いはじめたからではないのか。たとえ今日、いかほど稼ごうとも、もうこれで喰えるなンてことはないと知るべし。実態への怖れ、感受性を失ったら麻雀は致命的である。きつい文章になってしまったけれど、私にとって小島さんはある種の身内のようなものであり、彼の言動を面白がってだけいるわけにはいかないのである。

(別冊新評・プロ麻雀入門・小島武夫特集号)