『音楽誌が書かないJポップ批評尾崎豊』文庫版のAmazonレビューを批判する

https://www.amazon.co.jp/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E8%AA%8C%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84J%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%97%E6%89%B9%E8%A9%95-%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%B1%8A-%E5%AE%9D%E5%B3%B6SUGOI%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4796665439


音楽誌が書かないJポップ批評尾崎豊』文庫版のAmazonレビューで、十年以上にもわたって、僕についての批判(というより、世相に合わせて書き換えながらのパラノイアックな中傷)を続けている人がいる。僕は彼の素性を知っているが、連絡を取る手段を持たない。彼の方にはそれがあるのに、直接僕に意見するでもなく、自ら名乗るリスクさえおわず、こうした中傷を繰り返し、イメージの低下を狙うような卑劣な振る舞いを繰り返している。
僕は、自分が正面から力を尽くした仕事が、読まれる前にこうした妨害によって先入観を持たれ、拒絶されるようなことは嫌ので、はっきりと批判を加えておく。
僕は社会学的なデータ主義を、それが普遍に繋がる方法だとは考えない。
データは、それを取る者によって、どうとでも恣意的な集められ方をするし、恣意的に導き出された結論を真実であるかのように吹聴もされる。
僕はこの本に寄せた文章で、ただ自分の経験と実感を語っているだけだ。勿論、それが現実すべてを包括出来ているなどとは思わない。だから、自分は違うと思えば、自分の場所から見て、感じたものを書けばいいと思う。そうした一人称と主観を引き受けることをしないで、ただデータデータとそれが普遍的真実であるかのように吹聴するのは誤りであり、卑怯な振る舞いであり、人に他者や世界を見通せていると錯覚させる危険なことだも思う。
彼は、伝統的な習慣や共同性の桎梏、体育会的、不良的な縦社会の人間関係を嫌いで、忌避し、否定たい感情が強いようだと、コメントを読んでいて感じた。僕も、それが全面的に正しく問題が無いなどとはまったく思わないが、同時に一分の理も無く、簡単に否定できるようなものだとも考えない。それによって現実や人の在り方、関わり方が支えられてきた部分は容易く否定できないとも思っている。家族や友人への親愛を歌う尾崎の個性は、個に閉塞し過ぎている現在のミュージシャンに失われた大きな美点だとも思っている。
そして、こうした古風な共同性を忌避するこの人は、彼自身のような文弱の徒たちの、弱さ故の卑劣さや、結局群れて排他的にならずにいられない大同小異な世間のあり方への反省があまりに欠けているのではないかと思う。そうした弱さ、そして自分を省みることの無い一方的な被害者意識が、このような手段を選ばない卑劣な振る舞いを自己正当化してしまっているようにも、僕には見える。