阿佐田哲也「ギャンブルという鏡」

競馬、競輪、競艇オートレース、麻雀をはじめとする室内遊戯、東京じゃ許可されていないけれども犬や軍鶏をかみあわせる奴、野球もボクシングも賭けの対象になっているし、近年はゴルフがギャンブルの代表的種目になってきた。
まったく、好きだねえ。日本の成年男子でまったく賭け事に手を出したことがないという人が、どのくらい居るだろうか。三割。いや、もっとすくないんじゃないかな。
やりそうもないと思われてる人たちは、まず大金持ちだな。これは金のやりとりにスリルを感じないから賭博不感症。半端な金持ちはかえってやる。それから知的エリート、乃至技術エリート。
それから婦人。特に家庭婦人は、銭を得たり失ったりすることに対する関心がうすいし、銭に対して保守的にしていれば生きられるのだから、賭博に深い関心を持つ状況がうまれない。
まァ日本みたいに、せまい土地に人間ばかりうようよと居るところでは、生存競争が烈しいから、男はなにかにつけて勤勉にならざるを得ない。正の意味でも負の意味でも勤勉だ。日本人のおおかたのギャンブルは、勤勉ということと無関係ではないよ。
ギャンブルに対してだけじゃない。俺なんかね、学校に行かなかったから、やや特殊だけれども、十代から二十代にかけて、たとえば映画をせっせと見ていた頃は、映画にかけてはこの世の誰よりも専門的になろうとしていたね。映画の批評でもやってメシが喰えるようになればいいと思ってた。その望みが具体化しえないとなると、映画から離れちゃう。音楽に対しても然り。落語などの古典芸能に関しても然りだ。
俺が凝った物はいずれも職業化しうるかどうかということにつながっていた。自分がどうやって生きていくか。そのことでじたばたする。なかなか納得のいく生き方にぶつからない。俺なんか、十代の頃、現実には会社の給仕か、靴みがきぐらいしか可能の職業がないんだからね。
それでギャンブルにも凝った。まァまァこのへんのところだろうという納得づくで職業についた人の眼にはお笑い草だろうけれど、自分がこの世にうまれてきて納得のいく生き方ができないということは、実に辛く悲しいことだよ。
だから社会の下層に近い方、支社サラリーマン、ブルーカラーの人々、商店労働者、とにかく生きていくために下積みで辛抱している人たちが、その場で即決の夢に関心を持つという気持ちがわかる。
大工に転向しようと思ったって、すぐには実現しない。ギャンブルは誰にもできる。一定の職業についたあとでも、個人的な余暇を利用してできる。銭の出入りに直接関係している。その結果がいいかわるいか、とは別問題だ。
誰にもできるが、そこで生きしのぐことは困難だ。例外なく経済的赤字になる。赤字になればその分だけ、傍観者の眼には遊んだとうつる。事実遊んでも居るが、志は勤勉から発している。甘いという論評は当たっているが、俺にはその甘さを笑えない。どうせ駄目だから行儀よくしていろ、とは澄ましていえない。
たとえば競輪場に蝟集する人々のギラギラしたような感じ。あれに眉をひそめる人がよく居る。特に帰途、おけら街道をひきあげるデスペレートな人波を、集団として眺めるとそんなふうに見えるのだろうと思う。
けれども、その個人個人は、彼等の日常にはついぞ見せないようなとてもいい顔つきになって、半日遊んでいたのだと思う。
彼等はその職場では、おおむね機械の中の鋲ひとつのような存在になって働いている。そこでは管理されたごく一面の能力しか発揮しえない。

ギャンブルはもともと個人的なもので、したがって個人で何から何までを司る。もうここでは単なる鋲ではなくて、一人一人がワンマンショーをやれるんだな。
人間は誰しも、個人能力をフルに発揮したいと切望するものである。ところがこの管理社会では、職場のみならず、家庭でもそうした機会に恵まれない。呑む打つ買う、は自分が主人公だ。彼等はこの一瞬にのみ、脇役を脱し、下積みを脱する。今日の日本では、娯楽とは、多くの人間にとって、主役を演ずる機会にあたるのだ。
そういう生き生きした表情をしているように俺には見える。但し、主役の座に坐ったその代償に、手傷を受ける。その手傷が大きすぎるという意見もあろう。手傷のためにデスペレートになってしまうし、主役だった高揚が、やっぱり自分は脇役にすぎぬという認識に戻る。それが彼等の帰途の表情なんだ。
人間は本来ギラギラの存在さ。けれども同時に、檻の中のライオンとちがって、多くの人間は、自分自身で我が身を去勢していかなければならない。それが今日の社会律だ。そうして、一瞬、檻を脱するために、手傷覚悟でギャンブル場に行く。
生存競争の烈しいところでは、そう下積みではないミドルクラスでも、自分の個人能力を絶えず点検していく必要がある。
なにしろ俺たちは、他の人たちと隔絶した能力を持ち合わせているわけではない。皆、似たり寄ったりなんだ。俺は学歴がないが、たとえ学歴なんかあったって、観念的なパスポートなんて、誰もが不安に思っている。
サラリーマンたちがやる競馬や麻雀には、そういう不安が裏打ちされている。同僚が相手でも、不特定多数の群衆が相手でも、それは同じことだが、同じような条件の者たちの中で、自分の技能がすぐれているということの証しを得たい。だから、日本人に好まれる、日本のギャンブルは、例外なく技能の遊びですよ。欧米のギャンブルの興味は「スケール」なんだ。
たとえばルーレットで、全財産を賭けてしまうとか、競走馬がマイルを何秒で走ったとか。重量級ボクサーのパンチがどれほど凄いとか。つまり、ギャンブルはぜいたくな遊びなんだ。
競馬だって、向うのは、力と力の対決だ。
日本の競馬は、押さえて行く。馬の力を騎手がどう生かすかだ。競輪だって技巧的さ。その技巧を観衆が読みとろうとする。
麻雀は、発生元の中国では、運を楽しむゲームだった。日本に輸入されると、とたんに技能の遊びになる。リーチ麻雀、これほど日本的な、能力遊びはない。皆、一生懸命に相手のテンパイを読み合い、放銃を避けてしのぎ勝とうとする。
なにしろ勤勉に遊んでいるんだよ。そのかわり、スケールはさほど重視されない。特殊な例外をのぞいて、自分の生活が破綻するほどの金額は賭けられていない。自分の日常の中の不安感を解消するのが一つの役割だから、そのために日常が狂ってしまうような金を賭けるわけがない。
日本ではギャンブルは、ぜいたくな遊びとはいえないんだ。着飾って、改まった形で遊んだりしない。そのかわり、おそろしく日常的だ。
今日、自分が同僚に勝って優位を得、俺は同僚よりは利口だよ、と思う。俺だってまだまだ捨てたもんじゃない。
だが、それは内心の納得の問題で、決定的な以後のパスポートじゃないから、常に戦って、明日の優位を得ようとする。
負けた方も然り。今日負けたって、明日負けるとは限らない。明日勝てばよろしい。だから、ルールもそのように改正されつつある。技能的であり、技巧で勝負が決するが、同時に、勝負が一方に片寄りすぎてはいけない。皆、似たり寄ったりで、お互いに技能がたしかめあえるようなものである必要がある。近年のルールは、技能と運とが折衷するような方向に是正されつつある。
妙ないいかただが、日本人は遊んでいるときも、完全に遊んでいるヒマなどないのだ。そんなことをしていると、すぐ脱落してしまう。
その代償としてゲーム代を払い、家庭の幸福や、時間を犠牲にする。掛け金そのものは、やったりとったりして、結局ちょぼちょぼになってしまう。もしあまりに一方的に差がつくようならば、そうでない相手をお互いに選ぶのである。
麻雀が特にその傾向が深いが、競馬だって賭けそのものは本来はその形になってるんだ。ただ、競馬競輪などが、ほとんどの観衆の懐中が赤字になってしまうのは、二割五分の税金が天引きされるためなんだな。
七割五分は常にゲーム参加者に払い戻されるが、二割五分はいつも戻ってこない。これが大きいね。美濃部さんが昔いったように、家計失調が生じるとすれば、それはギャンブルそのものではなく、税金が元凶なので、したがって美濃部さんは、競輪場でなく、税金を廃止させるべきだったんだ。

(Number86年6月5日号)