色川武大「僕の比喩的人生観・男はオオカミ的生き方をする

僕は十三、四の頃、お茶の水駅や電車の中などで毎日スリになる修練を積んでいた。目と頭では、相手のどこにサイフがあるのか見当をつけて探ることができるのだが、いざとなると手が動かなかったものだ。
結局、スリにはなれずじまいだったけれど、僕にとって、この期間が何十年という人生の中で、一番マシな男らしいことをやったという気がする。このように闘争本能を試し、実行したことは、割に男の本来の生き方とはずれていない行為だったと思えるのである。

そういう冒険は、たいがいの男の子なら、一度は経験することである。男は、大きくなったら何をしたいかというより、どういう生き方をしなければならないかと考える。
どういう生き方をしたいかと考えるのは女の子に多い。逆に、したいようには生きられないと考えるのが男なのである。スリといったふうには考えなくても、ほとんどの男が、似たようなことを考えている。学校の教室で、つまらない授業を聞いているよりは、何か手に職をつけたほうがずっと生きる方便につながる。
僕はライオンのような生き方が男の生き方の原則であるとつねづね思っている。お腹がすいたら、獲物を追いかけて食べ物を採る。しかも自分の家族の食べ物もつかまえなくてはならない。そしてお腹がいっぱいになるとゴロリと休む。
ー老いてくれば、獲物より早く走れないから逃がさざるを得なくなる。そこで飢え死にするか、自分の同類に喰い殺されてしまうのがライオンの宿命である。
このことは同様に、人間の男にも課せられた運命であろう。自然と闘い、自分を摩耗させ、殺し合いをしながら、その苦しみを引きずって生きてゆく、これが男というものの生き方の原則である。

しかし、人間には動物と違って安全度というものがあるので、年を取ったときに、誰かに喰い殺されないように、貯蓄をしたりする。つまり、腹一杯食べたいときも、ガマンすることになるのである。
これは複雑な道とも言える。皆が歩く「大きな道路」でもある。安全度のために、じぶんのやりたいこと、他の欲求の充実を犠牲にした生き方だ。
まあ、無難かもしれないが、決して幸せな道じゃない。内心では欲求不満の塊が巣くっている。
安全とひきかえにされた犠牲は、電池のプラス極を生かすために必要なマイナス極と同じものである。その二つの関係は、いわゆる「輸出と輸入」の関係である。
たとえば、相手がお金をくれるのはプラス、つまり輸入である。しかし、ただもらって喜んでばかりはいられない。輸入するからには輸出、つまり自分も人に何かをやらなければいけない。
都合のいいところばかりを考えに入れると、とんだ目に合う。一つのプラスを得ようとすれば、必ず一つのマイナスも覚悟しなければならない。
その認識を誤って、都合のいいところだけ取り入れて、都合の悪いところをなるべく考えに入れないようにするのが「恥知らず」ということだと思う。
「恥知らず」とは、その道理に対する認識の不確かさから生じるものだと思う。素朴な認識不足から、自分に都合のいいとこだけを願っていることには気づかないときもあるだろうし、また恣意的なわがままから、そう思いたくないという性向にあるときもある。その総称ではないかというそんな気がする。

また、恥には境界線があり、恥を自覚している生き方は、自分を信頼できる線、信頼できない線を自分の中で明確に持っている生き方である。
『ブー・フー・ウー』という、NHKの幼児番組があった。これは、男と女という性別をポイントに置かないで、肉食動物と草食動物という区別にポイントを置いている。
草食動物であるブタは、殺戮をしなくてもなんとか食べてゆける。だから、殺し合いをしてはいけないという道徳と矛盾し合うことはない。
ところが、肉食動物であるオオカミの方は殺戮しなければお腹がすいて生きてゆけない。そこで殺戮せざるを得なくなる。しかし、そこには絶えず、殺戮をしちゃいけないという道徳と、思わずやっちゃったという反省との矛盾が渦巻いているのである。

世間での多くの場合、人間はブタを自分と見ているのであり、あくまでもブタの見たオオカミの評価である。本来ならば、オオカミ側からの評価もあってしかるべきなわけである。
世の中には、道徳律というのか、オオカミの絶えず反省する「殺し合いはいけない」というテーゼがありすぎるから、逆にブタが反省し悩むドラマが生まれないだけである。
つまり、ブタもオオカミも、生まれそなわった条件が根本的に違うのであって、自分の尺度でものを評価するのは非常に危険であるということだ。
このように考えれば、殺し合いはいけないことだと自覚し、反省と殺戮の間を往復しているオオカミは決して恥知らずではない。
殺戮一方になったり、反省一方になった状態を、恥知らずと言うのだと思う。自分の現実に対する認識不足から生まれるものであろう。そういう原則をふまえた線、恥を自覚した原ルールの上にこそ、自分の「律」と言うべき尺度が加わってくるのが本当だと思う。
僕にとってのライオン的、オオカミ的な生き方の具現であった少年の頃のスリの授業は、目という生き物の能力の錬磨と、動物の本性である道徳との相剋であったわけである。男として一番オーソドックスな生き方を、十代初めに味わったことは、後になって、何が原則的な生き方なのか、何が逃げの生き方なのかを見極める手だてとなって役立った。
十代にそれを経験しないで、人から教えられた「無難な道」しか歩まなかった男は、何が原則なのか、何が恥ずかしいことなのか、分からずじまいで終わってしまうだろう。

僕をはじめ、男はオオカミであり、殺戮を繰り返しながら生きてゆかなければならない生き物なのである。
いわばブタである女は、殺戮をしなくても生きてゆけるという「平和」との代償に、退屈さと戦ってゆかなければならない生き物である。ブタはブタなりに根本的な生き方を変えないかぎり、オオカミ的な生き方はできないだろう。同様にオオカミは死んでもブタ的な生き方はできないのだから。
女にとって、結婚して子供を生むことは、誰でもがやっている平凡な生き方であっても、それ以上の完全な生き方はない。「子供を生みました」というだけで完全な生き方を具現化している女は、ただそれだけで何もしなくても、誰も笑うことはない。だから、退屈もするのだろうし、また男から見ても、これほどおもしろくない生き方もないだろう。
ナポレオンのように、地球の何分の一、あるいは半分を征服したとしても、男はどこかで笑われるものだ。また、もしここに世にも希なる美男子がいたとしても、彼は自分がこの世で一番美しいとは考えられないだろう。なぜならば、自分の美しさ以上のものがあるかもしれないと恐れているから、どこかできっとオレのことをバカなヤツだと笑っているたろうなという意識があるからだ。
そういうふうに、男はしょっちゅう、本当の生き方とはどういう生き方か、哲学とか、言葉の本当の意味は何なのか、ずっと考えているわけだ。
結婚して子供を産むことに代表されている女の生き方にとって、そのことこそが人生の本当の意味であり、その平凡な退屈さをいかに工夫して対処すりかが、人生の鍵であろう。よしんば女が男同様に退屈さを投げ出し、殺し合いをしなければ生きていけない生き方をしたいと望んでも、しょせん、不幸の歴史の浅さ故に、歴史の重みがある男社会の中で張り合ってゆくのは無理である。いくら、女の要素を捨てたとしても、一流のライオン的な生き方はできないだろう。(談)

「ニューセンスの新しい女性」(吉川書房)79年2月号