現在の真に重要な論点について

このところ自分の過去の文章を、SNSにリンクしなおす為にいくつか読み返していて思ったのだけれど、かつては僕の言っている程度のことは、社会での経験と本で学んだ理念の量が極端に逆転しているようなごく狭い出版業界やアカデミズムの派閥内部ならともかく、普通に生活していた人は、本音では決して少なくない割合で同感してくれていたはずだ。
ただ、多くの人は、日々の生活の中で何となくそう感じているだけで、自力で考えて、理路を踏まえてそれを選んだり、意識的に肯定したりしていたわけではないから、世の風潮や思潮の潮目が変わって、上から「そう感じては駄目だ。その感じ方は間違いだとわかった」と宣言されると、簡単にそれもそうかと思ってしまうのだ。そして、それが一旦全体の多数を占めてしまうと、そう考えない人間がいると不安になったり、揺さぶられてイライラしたりして否定せずにはいられなくなる。今、起きている、ウォーキズムとかキャンセルカルチャーとかポリコレ云々など、価値観のアップデート?を巡る混乱というのは、そういうことだと受け止めている。
たとえば僕は、人が成熟する条件の重要な点として、内なる暴力やセックスを適切に自覚、制御して、楽しんだり使いこなしたりできる経験と悟性を身につけている、ということがあると考える(自分にそれを最初に意識させてけれたものに、富野由悠季監督のアニメ作品群がある)。ところが今、暴力やセックスはとにかく良くない、不都合な他者のそれは規範で縛り、がんじからめにしてしまえという風潮が、文化やアカデミズム(の頭でっかちなインテリたち)に蔓延し、彼らによって社会的に強制されている(そして、自身の側の欲望と責任の自覚は、逆に徹底して避けようとする)。しかし、暴力もセックスも僕ら自身の体や本能の中にあるものだから、それを否定するということは自己否定、肉体を持った主体の否定だ。でも、そんなふうに肉体や生理を自由に変えてしまっていいというところまで、そうした人々は既に考えるようになっている。
当たり前に生きている多くの人々にとって、つい昨日まではそんなバカな!と俄かに信じられなかったようなSFじみた考え方だけれど、頭のいい人たちの世間である程、本当にそう信じられてきているのが恐ろしい。
今の、ポリコレにしろジェンダーにしろLGBTの発想にしろ、まさに自分の条件をすべて自在に選べるようにすべきということを目標にしている。人間を超えたAIを目指すことに希望を見るような科学の発想もまたそうだろう。それが結びついて、まさに銀河鉄道999の機械の身体による永遠の命と安楽や、エヴァンゲリオン人類補完計画のように、生きることの負荷や苦しみを、すべて消してしまうことこそ究極の幸福だという価値観が、世の中の根底に確かに蔓延している。
深沢七郎の人間滅亡教と、まさに真逆の発想だ。
実際、そういう考えを求め啓蒙する本が、書店でも既に全ジャンルで幅をきかせている。僕は、人間をやめるのは嫌だし、あくまで人間として誇りを持って生きたい。だから、負荷をどんどん小さくしようとし、その結果、人間が人間で無くなってしまっていいとするような思想には反対だ。機械化人にならず、あくまで生身の人間の限りある命を生きたいと思うように。寂しくとも、それを簡単に補完されてしまいたくないと思うように。
そう説明されれば、この考え方に賛同する人は決して少なくないと思う。
しかし問題なのは、一般の人々は、この対立点を正確に伝えらておらず、マスコミも深く触らずに伏せたまま、何となく便利は楽でいいなという形で歓迎し、骨抜きにされていっていることだ。
そして、一般の人に見えない知識人の世界で、機械化人が圧倒的に優勢になっているように思える。はっきりと生身の人間の、限りある命の誇りの側に立つ者が、ほとんど見当たらないことが、自分は怖ろしい。
この生きることの負荷への対し方をめぐる価値観の対立こそが、目先の政情や経済よりも何よりも、いちばん肝心な大問題だと思っている。


付記。
たとえば、いくら差別がいけない、弱者の側に立てと規範を言い立てようと、企業に所属し、あるいは下働きとして職場に所属していれば、企業の利潤と職場での業務上の責任を第一に、他企業と競争するために働く一員となる。そうした、国や企業などの大組織の利益を損なうようには、規範ははたらかない。
にもかかわらず、個人だけが、競争はいけない、マチズモを棄てろと羊のように武装解除させられてしまっては、大組織や強者に対して、小さな個人が身を守るすべが失われてしまう。
暴力や闘争の禁止は、弱者に好都合に見える外見と逆に、弱者から最後の自立のよすがを奪う。

 

関連

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2022/12/09/113108