『青春少年マガジン1978〜1983』小林まこと

このところ、マンガ家と編集者のトラブルがよく取り沙汰される。
出版業界というのは、傍目に派手なイメージと違って実は小さな産業だから、明文化された契約やルールよりも、個々の現場の慣習、情実によって回ってきた、古い体質の社会だ。僕ら、出入りの零細企業であるライターは、いまだに事前にギャラの話をすることはタブーだし、日々読み捨てられていくスピードの中で、ガキ向けの娯楽から、一気に出版の屋台骨を支える主力商品へと駆け上ったマンガの世界が、より特殊だろうことは想像に難くない。マンガ家と編集者が二人三脚で、プライバシーも何もかも投げ打って、ドロドロになりながら生み出すものに、著作権だとか契約だとかいった乾いた言葉や観念が、なんだか馴染みにくいなと感じる部分は確かにある。
ただ、情実というのは、つまり最終的な解決がつかないことに対して、根本的な解決を保留し、取りあえずのところで馴れ合いつつやっていこうということで、両者の間に強い信頼がなければ成り立たない。そして、その信頼を成り立たせているのは、「とにかく自分はここでこいつらと同じ釜の飯を食い、やっていくしかない」という、好悪を越えた諦めと覚悟だろう。
出版やマンガという産業が巨大化して世間並みに複雑になり、その一方でコミケにネットと、現在のように作品の発表手段が増えていけば、情実の根も綻ぶ。それでも、昨日までのやり方を急に何もかも変えられるものではないし、変えてしまうことがある意味マンガの「熱」を奪ってしまうこともあるかもしれない。しかし、変化した状況の中で形骸化した慣習に頼っていると、軋轢が曖昧に弱いところに集中するような問題も起こる。
だから、現在のようなトラブルや議論も起こるし、それは起こるべくして起こったとも思える一方、むき出しの利害や感情が露出する寒々しさもどうしても感じる。

改革の口火を切ろうとする個人が、動機や気質ゆえに急進的になりすぎたり、それが黙殺や隠微な排除を受けたりするのは、ある程度やむをえないことだし、それに耐え、試されながら考え戦ってこそ、個人の勇気と行動の価値も輝くが、契約や権利を冷静に追及し、整理するその果てに、そうした乾いた利害の世界に生きているという認識と共に、情実と仁義が生まれて欲しいとも思う(認識も生まれず、したがって情実もないという、曖昧なし崩しの変化の結果が、ある意味一番怖い)。


前置きが長くなったけど、『青春少年マガジン』。
世代的にはど真ん中にもかかわらず、マガジン読者でも熱心なプロレスファンでもなかったためもあって、『1・2の三四郎』はじめ小林まことさんのマンガをちゃんと読んできていないのだが、信頼するマイミクさんの推薦で読んでみた。
少年マガジン50周年に合わせた企画の一環で描かれた作品らしいのだけど、いきなり冒頭から、「楽しかった思い出など ない!!」と言い切る。でも実際には、デビュー前の困窮や、週間連載連載の修羅場、ゼロからの創造と人気商売ゆえのプレッシャーなども、『三四郎』そのままのトボけた調子でサバサバと語られて、読者に負担を感じさせない。
そして、そんな思い出の中心にあるのは、小野新二、大和田夏希という二人の同期作家との友情とライバル関係。マガジンの独特さでもあると思うけれど、調度この頃のマンガ家は、前の時代のトキワ荘の大御所たちみたいな教養人でもなく、後の趣味が嵩じたオタクたちって感じでもなく、根が体育会系のチンピラが、マスを相手にタフさと大味さと無邪気さで押し切ってる感じで、乾いた独特のリリシズムを感じる。最終的に、二人の漫画家生活は壮絶な結末を迎えるのだが、それまでの交友の日々を含め、描き方が本当にさらっとしていて、彼らの内心とか、取り巻く状況への分析や批評というのをしない。
けれど、泥臭い画風で言葉少なに語られているからこそ、彼らのタフさと、日々の過酷さとが却って重く伝わる。
小林さんは58年生まれだから、世代はぐっと下るはずなのに、大袈裟や深刻に照れる、古風で不器用な男の含羞の在り方に、まるで高度成長期を支えたオヤジたちを見ているような気さえする。
鬱屈や葛藤を細かく饒舌に描写する、いわゆる文学的な表現方法では記し得ない主観、心象というのが、確かにあるんだという思いを強くした。
過酷な競争の中で消えていった戦友たちを、綺麗ごとにもしないが、むき出しにもしない、けれど決して忘れない、情実と節度の練られ具合は確かに美しいし、かなわねーなと圧倒もされる。

青春少年マガジン1978~1983 (KCデラックス 週刊少年マガジン)

青春少年マガジン1978~1983 (KCデラックス 週刊少年マガジン)