『TAJOMARU』

bakuhatugoro2009-10-16


上映終了直前駆け込み観賞。東映撮影所隣のシネコンで、客席は自分以外に一人だけ。散々な評判ばかり聞こえてきていたが、案外そんなに印象悪くなかった。ただ、宣伝の方向は思いきり間違ってたと思う。「ブレない男の生き様」どころか、育ちの良さから自然に身についていたヒューマニズムが、立場の変化と共にどんどん裏切られていく、本質的には甘ちゃんなボンボンの没落地獄巡り話だから。
これは明らかに、先が見えにくく、じわじわと豊かさが失われる予感に怯える現在の世相を念頭に(半ば挑発するように)考えられた企画だと思うし、そうはっきりと打ち出した方が明らかにフックがあったはずで、現に僕自身、単にファンタジー風アクション時代劇ということ以上に、事前にどんな映画だかイメージが沸き辛く、食指が動き難かった。伝え聞く興行不振の理由も、映画そのものの出来以上に、ここが大きい気がする。


ただ、本編自体も、意図の混乱は確かに目に付く。
地獄巡りをのリアリティをどの程度ハードに突きつけるか、それを小栗旬のヒーロー映画であることとどの辺りで折り合いをつけるかについての合意が、内部で取れていなかった気配を感じる。
お家騒動の収拾を放り出して、女と二人で逃げた結果、野盗に女を強姦されて、絶望した女に三行半を突きつけられる。やがて、お家騒動が幼少時代に情けをかけて取り立てた「もとは盗っ人」の家臣の謀略だったと知るが、彼は将軍から稚児として寵愛を受けていたため、事実は揉み消された上、「お前は家もお役目も放り出して、女と二人で逃げたのではないか」「正義を口にするなら、家へのこだわりは捨てよ」と逆にやり込められてしまう。「こういう立場にいると、いろいろな方向から話が聞こえてきて、何が真実かわからなくなる。やがてそれもどうでもよくなる」「正しいことから起こったことが、正義とも限らぬからな」という将軍の台詞は、そのまま僕ら観客の内心の実感でもあり、同時に、剥き出しの事実によって道徳の根拠が切り崩されるような不安も煽る。この辺りは、稚児の尻をなでながら、得々と主人公たちに語り聞かせる 清濁併せ呑んでいるようにも浮世離れしているようにも見えるショーケンの怪演も効いていて、なかなか良かった。


真実は、各々の立場によって姿を変える。状況や受け手の都合によって、まともに事実が受け入れられるとは限らない。そうしたこの世の理不尽対して、個人はいかに対し、内なる真実を持つべきか。あるいは、そんなものは無用だと、ノールールな混乱を積極的に泳ぐか。
こうした問いと試練に対して主人公側が示すものが、富や権力に執着しない、やべきょうすけ達とのアナーキーでフリーダムな生き方なのだが、その描き方が70年代の市川森一作品そのままにイノセントで性善説的(それこそ『傷だらけの天使』のように)な上に、そうした「ファンタジー」を描くディティールにもリアリティがないので、嘘に嘘を重ね過ぎて刺激も説得力も生まれない。たとえば、『傷だらけの天使』なら、アナーキー&フリーダムな生き方を選び、持続することの厳しさや、それに耐えられない者の悲惨な末路が、ザラついた昭和の場末の風景ごと描写されていたが、本作では厳しさを通過する中で得ていく自信も、あるいは負けを引き受ける覚悟も描かれることが無い。
荒唐無稽な時代劇+アナーキー&フリーダムな青春群像といえば、僕らの世代だとまず『戦国自衛隊』を思い出すが、自衛隊員と足軽たちが、共に夜這いをすることで友情を暖めあうような、荒々しさや暴力性が担保する「剥き出し感」や、そこから生まれる男性的な抜けの良さ(それがあるからこそ一方で「無邪気な甘酸っぱさ」も際立つ)が、本作にはまったく欠けている(というより、最近の邦画の多くがそうであるように、「いい人のいい話」として、帳尻を合わせようとし過ぎる)。


曖昧に将来への不安を感じながら、さりとて具体的に切羽詰っているわけでもない、現在の観客の曖昧な閉塞感に対し、「裸一貫で生きる逞しさ、潔さ」を提示しようとしたところまではいいのだが、それが具体的にどういうものかを考え、描くこと(例えば、『グラン・トリノ』でイーストウッドが見せたブルーカラーの自立を支えるアルチザンシップに当たるようなもの)に本気になりきれていないことに、映画の失敗の原因は集約されていると思う。
本来「甘さ」「弱さ」として突き放されているはずの主人公の行動や性格も、額面としてのヒーロー性を担保するためか、中途半端に「人間味のある」「格好いいもの」とも取れる曖昧な演出によって見せられるので、例えば「麻雀放浪記」や「白昼の死角」等のアプレ青春もののように、「罪はあれども罰はなし」な寒々しいバイタリティを敢えて引き受けるのか、あるいは長谷川伸山本周五郎のように質実剛健な人情に光を当てたいのかもよくわからない。その辺の曖昧さを「男女の純愛」と「性善説アナーキー」で濁してしまうテイストが、それこそ7,80年代の大作邦画的に古めかしい。
だから結局は、せっかくのシビアな挑発のセリフも、結局「どこから言っているのかわからない」、無責任な言いっ放しに聞こえてしまう。
小栗旬目当ての女性客を意識した結果かもしれないけれど、やはり暴力とエゴイズムに対する見解という映画のテーマ核になるポイントで逃げてしまっている印象は否めないし、もし「それが娯楽映画のさじ加減」だと考えているなら、それは現在の観客を舐めすぎていると思う。


今たまたま、市川森一脚本による78年の大河ドラマ『黄金の日々』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%97%A5時代劇専門チャンネルでやっていて、これがやはり中世から近世への転換期、古い秩序が乱れる戦国の世を自由に逞しく、しかし優しく生きる若者群像を描いた、まさに「性善説的なアナーキー」ど真ん中なドラマで、これも当時の「現代性」ゆえに、今見ると辛くなってるかもしれないという不安があったのだが、実際見始めると、現在製作される作品にはあり得ない素朴さ、ナイーブさを含めた明るさが気持ちよくて楽しい。もちろん「当時の」「そういうもの」として見るからこそという面もあるけれど、何より市川染五郎、川谷拓三、根津甚八といった、まだお茶の間にはなじみの薄かった非テレビドラマ的な若手俳優の芝居に勢いと生々しさがあって、彼らの鮮度とパワーとテーマの相乗効果で説得されてしまうのだ。
この部分が、『TAJOMARU』は決定的に弱かった。演出が、いわゆるアクションシーンと会話シーンをまったく分けて捕らえているらしいことと(つまり、会話を「活劇」として撮る発想が無い)、前述のリアルな問いかけとヒーロー性の折衷の混乱に加え、小栗旬の主人公の芝居が繊細かつ等身大過ぎて、パフォーマティブな肉体性に欠けていた(このあたり、やはりショーケン、松方さんの70年代組はさすがだった)。


本来、くどくどしく大袈裟な批評をするようなタイプの映画では無いのだけれど、シナリオの根本に感じる、優れて現代的で且つ普遍的な企みの魅力と、それが上手く果たせなかった理由から、現在の邦画がはらむさまざまな問題が浮かび上がって、思わず考え、語りたくなる一作だった。

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