『復讐するは我にあり』

先週やってたテレ東の3時間ドラマ。
西岡琢也の脚本だと聞いて、血とバイオレンスのライターがこの題材をどう料理するのか、ちょっと楽しみにしていた。
あの今村昌平緒形拳版の印象があまりにも強烈で、どうしたってどこかで比較してしまうのだが、映画では描かれなかった逮捕直前3日間のエピソードに絞られていただけじゃなく、主人公の解釈やドラマとしてのアングルもまた違ったもので、興味深く観た。


まず、原因なしで結果としての殺人や、榎津の常人離れした言動だけが並べられているような今平版に比べて、今回のドラマは随分わかりやすい。
榎津の人物像は、戦中戦後の体験からだらしなく欺瞞的な父親を恨み、それが何となく(しかし強烈に)現在の榎津の捻れを生んでいると匂わせる、漠然として不可解だった今平版に対し、こちらはかなりシンプルに因果が纏められている。
貧困の時代に父親に捨てられ、反動でグレて、預けられたキリスト教系の養護学校でも持て余されて精神病院に送られと、親と神に二度捨てられる。そして簡単に人を信用し、騙されたくせにまたすぐに平気で人を頼るような人間の、弱さとずうずうしさを憎むようになり、詐欺と殺人を繰り返している男。
彼は、死刑反対や冤罪請求の運動をしている教誨師の一家に、協力を買って出る弁護士を装って入り込む。それが、いつ家族にバレるかのサスペンスになっていると同時に、性善説の一家と、善人を憎む榎津の戦いのドラマにもなっているという構成(これは、原作や元の事件に近づけたというよりも、西岡が意図的に作ったアングルのようだ)。


出演陣についても、今平版の生臭さ加減に比べて、ずいぶん薄味過ぎやしないかと不安があったが、榎津役のギバちゃんは、カッペ面と直線的な資質が案外泥臭い怖さに繋がっていて悪くなかった(ちょっと戸塚宏を思い出した)。
復讐するは我にあり」という聖書の言葉を引き、これは恨みや憎しみを支えにしてしか生きられない人間への免罪符だと語る榎津に対して、教誨師が「この場合の「我」は、人ではなく神のこと。復讐は神がするから、人はそんな愚かなことは考えるなという意味だ」と返すと、「嘘だ!」と激昂。
「あんたたちはいつもそうやって言葉を弄んで、嘘をついて、人を裏切っても悪びれることなく、涼しい顔をして生き続ける。ふざけるなッ!」
しかしその直後、「ま、どうでもいいや」と平静に戻ってしまうやり取りなど、屈折と諦めと居直りが拗れ固まった男の怖さが端的に表現されて、なかなか迫力があった。


が、脚本がここに込めたテーマ自体が受け手に届いていたかどうかは、正直かなり微妙だったと思う。
この後、榎津の正体に気付いた教誨師の通報で彼は捕まり、教誨師は「あの男に騙されなくて本当によかった。騙されていたら、他の冤罪事件でも、自分が犯人に騙されてるんじゃないかと世間は思ってしまう」と漏らす。ここに実は、「信じることは生きること」と言葉を弄びながらも榎津を切り捨て、「悪びれることなく、涼しい顔をして生き続ける」教誨師性善説の敗北が暗示されているはずなのだが(教誨師が本当に善意の人であることが肝)、意図してのことなのかどうか、それがさりげなさ過ぎて受け手に届いているとは思えないのだ。
元々日本人は「善と悪」とか「罪と罰」といった観念的な思考を突き詰めることが苦手で、深いところでは馴染んでいない。せいぜい「他人に迷惑をかけてはいけない」といった消極的な感覚しか持っていない。
「信じる、信じない」といった、信仰のリアリティも同様。
そうした曖昧、おおらかで、悪く言えばいい加減な人間達、つまり視聴者一般にとって、たまたま彼らの世間からこぼれ落ち、孤独の中で恨みと共にキリスト教的な善悪への裏返った執着を持った男の心情は、基本的には「他人事」だ。
このドラマ、セットや衣装も、最近に珍しく悪い意味での自己主張がなくて、時代に忠実に泥臭くできていたのだが、ある意味それも「昔ばなし」としてこのテーマを括弧に括ってしまう効果を生んでしまっていたように思う。


今平版では、殺人の直後手についた血を立ちションしながら小便で洗ったり、凄惨な暴力を即物的に並べ、まったく悪びれもしない榎津の態度を繰り返し見せて、不可解さと怖さでまず引き付けたが、そうした不条理やカオスをドラマの中心に置くかどうかとは別に、やはりこうした「ブラックボックス」故の恐怖や好奇心といった生理に訴えないと、なかなか特殊な人間の存在が受け手に突き刺さっていくのは難しいと感じた。
また、ドラマ版は性善説の敗北を描いただけでなく、榎津の生き方の悲しみも強調するのだが、上の教誨師の言葉の後に、榎津の正体を最初に見破った子供の「あの人は本当はたった独りで、寂しい人だったと思う」といった同情的なセリフが入ることで、視聴者を安心させすぎてしまったな、とも思った。ここにも、善意で目が曇って榎津に騙されていた親と、子供のある意味残酷な直裁さの対比が込められていると思うのだが、子役の山口愛ちゃんが悪達者すぎて、 どうしてもあざとく見えてしまったし、結果、榎津の孤独が善意の視聴者の理解に回収されてしまう形になっている気がして残念だった。


おそらく、大方の視聴者はよくできたサスペンスものとして、善意の教誨師が最後まで榎津に付き合いきり勝利したことを喜び、それでも救われない榎津の不幸に同情しただろう。
片方でそうした手堅さをしっかりと装いながら、この構図に簡単に乗れてしまうこと自体を善意の視聴者への苦い皮肉として、製作者たちが意図していたら...というのは穿ち観すぎるだろうか?