「シナリオ」1月号掲載、野上龍雄版「男たちの大和」に要注目!


映画そのものへの感想は、ひとまず公開を待ちたいと思いますが、本書と合わせてもう一冊、、この映画と日本の戦争に関心のあるみなさんに是非とも読んでいただきたいのが、現在発売中の「シナリオ」1月号に掲載されている、野上龍雄氏による本編では没となった第一稿シナリオです。
http://www.mmjp.or.jp/gekkan-scenario/new/saisin.html
商業映画、特にこうした大作の場合、一人の作家性によって全編の意図が貫かれるようなことは非常に難しく、またそれが必ずしも良いこととは言えません(勿論、野上シナリオが、大作エンタテイメントの枠を外したものであるとは、僕自身は全く思いません)。野上版が没になった経緯も、良くも悪くも膨大な人々の思惑や力関係のいたずらによるものと想像され、部外者にはうかがい知れぬ限り、「シナリオ」誌に付記された野上さんの手記を参照していただくしかありません。


ただ、僕自身はこの野上シナリオ、エンタテイメントとしての構成も第一級であると同時に、あくまでも戦中の、末端の一兵卒たちの生活と、そこから生じた心情を、現在の都合によって歪めることなく丁寧に、しかも見事に端的に描写した、邦画戦争映画シナリオ史上の傑作と言って間違いないものだと思います。


食事は洋食、甲板で洋画の上映会を楽しむ上級士官と、風呂に入る時間にも事欠く下士官達。
下士官達の日常は、「バット」をはじめとする厳しい罰直と苛めが渾然一体となった空気も当たり前にある男臭いものであると同時に、その多くが貧しい農家の次男坊、三男坊である彼らは、とにかく「食う」ことができて、しかも最新の機器に携わることにより退官後も食いっぱぐれることのないだろう現在の身の上に、それなりに満足しやりがいも幸福も感じている。
新兵の主人公は、優秀な上官である兄から「困ったことがあったら俺の名前を出せ」と、声をかけられても、「いやです。みんなと一緒だから厳しい毎日にも堪えられるんです!」と拒絶する。


大和は、実際の海戦でなかなか活躍の場を得ず、インパール作戦に向かう陸軍の輸送をしたりしている。訓練を重ねながらも出番がなく、しかし戦況の悪化はひしひしと感じ、目前に同胞の死を見送り続けている乗組員達は、ほとんど無謀といえる作戦に参加し死地へと向かっていく彼らを、軍艦マーチを鳴らしながら懸命に「帽振レ」で見送る。


そうした積み重ねの中で、気が弱く、訓練中にミスを繰り返しては上官に締め上げられ、さりとて自殺や逃亡する勇気もなく泣いていた下士官も、いつか新兵達に当然の如くバットを加えるベテラン兵となっていく。


僕は今まで(また、今回のムックでの戦争映画レビューの作成作業の中でもあらためて)、欧米列強が帝国主義による覇権を争っていた時代において、誕生間も無い弱く小さいアジアの小近代国家だった日本が懸命に力をつけ、独立を守ってきた事情を、敗戦以降の建前によって一切無視している、マクロな視点での斟酌を一切欠いた邦画戦争映画の多くに不満を感じてきた。そして一方、そうした大局的な視点によって、元々欧米のような近代個人の歴史を持たず、いたずらに物事にこだわりはっきりと究明するよりも、周囲との同調と納得による一体感を生き方の根本においてきた日本庶民の静かな諦念に満ちた姿を親愛を込めて描く一方、それがそのままなし崩しの無常観と無責任の根そのものでもあることに対する苛立ちを「天皇への呪詛」に象徴させる形で、自らの中の分裂と葛藤に正直に掘り下げてきた笠原和夫による、戦争、日本近代史を扱った諸作を強く支持してきた。
しかし、この野上シナリオには、そうした戦争や時代全体に対する説明や直接の考察はまったく登場しない。けれど、それを「是」とも「非」とも言わないまま、当時の人々の小さなやり取りや言動の中から、そうした生のメンタリティーが確かに伝わってくる。


沖縄への出撃前の最後の上陸、「突撃一番」の安全サックを懐に色街に繰り出す下士官の一人は、全財産の入った通帳を、なじみの娼婦に差し出す。

文子「あんた、沖縄に行きよるの?」
森脇「あんなところへ行ってどうなる。大和は本土防衛じゃ言うとるじゃろうが」
文子「だったら、なお、いらんわ」
森脇「バカたれが。今日日は空襲でドカンとくりゃそれで一巻の終わりじゃ。とっとかんか」
文子「今までそんなこと言うたことないね」
森脇「うるせえの、一々。いいからとっとかんかい。子供にもカネがかかるじゃろうが」
文子「子供?」
森脇「(笑いながら)今度は言わんが、俺が来るたびにできた、できたと言うとるじゃないか。もう3人くらいできとる勘定じゃぞ。いいかげんなことばかり言いやがって」
文子「(笑って)仕方なかろ。こんな商売で客の気引こうと思ったらそれぐらい」
森脇「言うたって、誰も信用せんじゃろ。誰の子だかもわからんしな」
文子「ほんじゃからいいのさ。ぐちぐち言うとったら誰も来やせん。こっちだって、はじめから信じさせようなんて思っとらんけん。ほんじゃこれ、もろうとくわ。ありがと」


(中略)


内火艇が出ようとしている。
艦尾に森脇。
突然、その顔がふっとこわばる。
遠く、見送り人の中から文子が出てくる。身をよじり、肩で左右を突き飛ばして必死に前へ出る。
森脇の目が、その腕の中にとまる。
幼児を抱いている。
内火艇が汽笛を鳴らす。一声、二声...そして、それぞれ別れの声をあげ見送り人桟橋は声の渦に包まれる。
幼児を差し上げてむなしく目を泳がす文子。
食い入るように見つめている森脇。
汽笛、そして落ち始めた雪...。
陸と海の距離が離れていく。


笠原和夫をして、「男女の機微を書かせたら、自分などまったく勝負にならない」と言わしめたにふさわしい、粋な描写であると同時に、共に当時の日本の貧しい農村出身者たちの、生のリアリティと無常観とが滲んだ、当時の日本人のメンタリティを端的に活写した秀逸なシーンだと思う。


調度骸吉君が日記で、自らの故郷と生の所属の象徴として天皇陛下を敬愛し、万歳を叫んで死んで行った戦前人たちのリアリティを語ってくれているけれど、僕自身は正直、そうしたなし崩しの無常観や、日本的世間の曖昧な無責任に対する恨みも強く、そうした個人的偏りから、戦前の体質を徹底的に反省、検証することなく、依存対象を天皇から欧米や民主主義へとスライドさせているのみの現在に対する怒りをぶつける笠原作品に思い入れてきた部分がある。
しかし、やはり自分を振り返っても無基準、気弱で、曖昧な、周囲の顔色をどうしても第一義として、それ以上の冷徹な基準や契約といったことに抵抗を感じるメンタリティは、どうにも否定できないのが正直なところでもあるのだ。
今回の作業をしていて僕が一番強く感じたのは、かつては分かりやすく状況や上からの強制という形があったから、それに人々が従わされているかに見えていたけれど、実はその時点では「一見不合理に見えたとしても」孤立し我を通すことよりもみんなと一緒に進むことに埋没する方が幸福だったのであり、分かりやすい強制や一枚岩の社会が薄くなり、分散したかに見える現在も、やはり殆どの人間がそれぞれの「利己」による選択によって、そうした所属と埋没を(息苦しく無い程度に洗練させた形で)望んでいること。そうした我々の根本のメンタリティは、今もほとんど変わっていないということだ。


変化した状況と、変わらないメンタリティを正確に自覚すること。
自覚によって自分の責任を明らかにしようとすると同時に、自分の基準の薄弱さの限界を常に意識すること。
それが未だ、欧米のそれとは確実に異なる、独特の近代を生きる我々が自らに課すべき倫理であり、そうした自らの独自性への親愛と苛立ちとを、突き詰めたところで再確認させてくれることが、自分が戦争映画に心を惹かれ続ける最大の理由である気がしている。