濡れた荒野を走れ(73年日活 監督澤田幸弘 脚本長谷川和彦)


このところ、チャンネルnecoでの神代辰巳のデビュー作『かぶりつき人生』放映、そして未ソフト化作品多数を含む今回の日活ロマンポルノ大量DVD化で、当時いろいろ物議をかもしたらしいゴジ脚本の『濡れた荒野を走れ』も観ることができたりと、まったく凄い時代になったもんだと思う。
しかし、主観的に今、この状況が楽しいかと言うと、残念ながら全くNO! 映画(に限らず諸々のサブカルチャー)と受け手の関係は、どんどん不健康になる一方のようにも思える。


例えばこの『濡れた荒野を走れ』、現在の受け手はどのように観、どういう感想が出てきているだろう。
俺自身はというと、正直言って途方にくれている。
長谷川和彦ゴジの、いや、彼のおおらかで骨太な資質によってミもフタもなく正直に吐露されている、戦後世代、団塊世代によるカウンターカルチャーの根っこにある世界観、人間観のあんまりな幼稚さに呆れている。
しかし、これは当時の「時代のもの」としてのこの映画への感想ということに留まらない。その後の彼ら自身も、また一見彼らの青さや暑苦しさに対し、冷笑的に批判しているかに見えるその後の世代も、根本のところでそうした人間観、世界観をまったく反省していないことに思い当たらずを得ず、暗澹たる気持ちになる。


この映画、『県警対組織暴力』あたりと並べられて、警察権力内の腐敗を告発したカゲキな作品と紹介されることが多いけれど、まったくそんなジャーナリスティックな切り口も掘り下げもカケラもない映画だし、ただやさぐれ刑事が登場するってこと以外『県警〜』とはまったく似ているところがない。むしろ、和製『イージーライダー』(の出来損ない)と言った方がぴったりくる。


主人公の刑事は、その特権を利用して証拠隠滅を謀りつつ強盗行為を繰り返しているらしい警察組織を抜けようとし、事故で記憶喪失になっている。
病院を抜け出した彼は放浪中に少女と出会い、不思議な共感が生まれる。
そして、主人公を逃亡のために記憶喪失を装っていると疑い、証拠隠滅のために彼を追うやさぐれ刑事地井武男。彼はかつて主人公に逮捕されたチンピラだったが、みじめな弱者であることに悔し泣きしながら、どんな手を使っても強くなりたいと誓う。そんな彼に主人公は「力を持つってことはな、加害者になるってことなんだよ!」と言う。
そして、純粋さ、優しさゆえに、人が生きていくことの暴力に傷つき、そんな既成の社会から逃れてさまよう二人の、おずおずとうぶな愛の交換と、コールガールを呼びつけての地井の荒んだセックスが対置される。
二人は、少女の従兄弟のいる旅のアングラ劇団に身を寄せるが、主人公の芝居を暴こうと彼の妻を目の前で犯す刑事を見て錯乱した彼は、誤って妻を射殺した揚げ句、地井に撃ち殺される。
そして、こうした顛末を後に、地井は虚無とも居直りともつかない表情で去っていく。


今更突っ込むのも野暮だけれど、はっきり言う。
行き場のない駄目な自分を恥じてるかのポーズを取りながら、その実それは「優しさ」「純粋さ」の裏返しなのだと言いたげに、思春期の少女に甘え、受け入れさせるこのやり方、自己完結した醜悪なナルシズムとしか言いようがない(その上、主人公の欲望の主体性と責任は、「記憶喪失」って設定に寄って免除されちゃってるし...)。
「力を持つってことはな、加害者になるってことなんだよ!」なんてセリフにそのまま現われているように、自分もまた人間である以上、逃れがたく「加害者」としての暴力を振るいながら生きている、生きざるを得ないという前提を引き受けることから逃げている、欺瞞的な子供の態度だ。
並べることさえ失礼だけれど、例えば『県警対組織暴力』は、利害によって癒着し、身贔屓し、そうした泥臭い現実と法の二重基準で生きる刑事と、戦後の社会の再編と地域の仲間の解体によるその破滅を描いた。けれど『濡れた〜』は最初から自分の欲得や利害といった現実を、自分の人間観の前提にすることを拒否している。そういう意味で、精神、観念だけの映画、もっと言えば中学生の妄想のような映画だと思う。
純粋で無力なボク、野蛮で汚れた人間と社会、切ない....だけど少女だけがそれを(自分の性欲も込みで、しかもそれを美化した形で)受け入れてくれる。この手前勝手な世界観、ゴールデン街オヤジの典型であると同時に、現在のいわゆるセカイ系だの、萌えだのってなメンタリティーにそのまま直結している。


自分たちが逃れがたく暴力的な存在であり、そうした厄介な自分たちが相争いつつ共生する場が社会であるという、前提の忌避。
団塊オヤジだろうと最近のオタクだろうと、戦後このかたあらゆる世代に共通しているのがこれだ。
俺は、自分が逃れがたく暴力的で、かつ決して一人では生きていけない存在だという自覚を持ち、そのことを受け入れつつ傷つき、恥じる「デリカシー」を持っていることが、「大人」の条件だと思っているんだが、彼らは要するに大人になりたくないのだ。
自分を恥じず、自分を悪くないと思っている人間は、自分の欲や振るっている暴力を、「暴力ではない」と思いたがる。だから、そうした自分の権利の主張に躊躇がないし、立場の違う者に対して容赦がない。
かつての左翼でも、最近のフェミニズムでもサブカルでもオタクでも何でもいいが、自分のことを「権力」ではなく、マイノリティ、弱者であると強弁したい者ほど、そう主張したい自分の立場を揺るがし、相対化してしまう他者や現実に対して、殊に残酷で排他的だし、またそのことの隠蔽と合理化に細心の神経を尖らせる。
正義がない、敵が誰だかわからない時代などと言われるけれど、本当の現在の息苦しさというのは、叩く敵が設定できないってところにあるんじゃなく、誰もが暴力の当事者であることの自覚と、当事者としての思考を放棄している欺瞞から発しているものだと思う。
自分が暴力の当事者だということを認め、きちんと踏まえられないと、本当はそもそも主張する力の弱い、通りの悪い本当の弱者を、弱者として認めることはできない。
「自己責任」なんてズラし方で、誰も強者としてのリスクと責任を果たさない。
誰もが自分は「悪くない」ことばかりをアピールして、悪の部分を引き受けない。
現在の息苦しさの背景にあるものは、正にこれなのだ。


つまり誰もが、「利己的で計算高いだけの子供」になったことから起っている問題なのだ。


一方、そうした政治や人生論と関係なく、「映画を映画として楽しむべき」なんて模範解答に安住しきっている、自分をフラットな好事家と規定したがっているようなタイプの映画ファンに欠けているのもまた同様に、現実の当事者として何かを選び、また切り捨てながら生きていく、己の暴力に対する痛みの自覚と、恥じらいとであることに変わりはない。


二人の愛の交換のバックで流れる、親しげで優しいディスクジョッキーの喋りは、林美雄の緑ブタパック。そしてモップスの「たどりついたらいつも雨降り」。
とにかくダサすぎるとしか言いようがない駄ジャレを繰り返す、アングラ劇団の安っぽさに象徴されるような、台詞回しの端々に現われるゴジのヌルくて野暮ったいセンス(それはそのまま『太陽を盗んだ男』の池上季美子に引き継がれているし、実は最近の本人のインタビューなどをみても、そのセンスの根っこはまったく変わらない)の時代がかり方は、例えば神代辰巳藤田敏八の同時代作品と比べても相当に野暮ったい。しかし、逆に言えばこののうのうとした根っこの甘ったれ具合が、彼の朴訥でわかりやすく、愛すべきところとは言えると思う。
そうした「優しい時代の空気」や、沢田幸弘による日活ニューアクション直系のやさぐれ風味や道具立て、映倫に反抗してわざとボカシだらけにしたSEXシーンなんかにも露なやんちゃぶりを取りあげて、「過激」「アナーキー」と持ち上げ、あるいは「それが「ワカる」自分が好き」とばかりに支持を表明するのが、現在のこうした邦画の受け手の「模範解答」といったところだろう。


だが、ゴジ自身は、決してこうした結論にただ安住していただけではなかった。
自分たちの親世代、戦中派世代の、圧倒的な体験の重みと強さにびびりつつ、しかし現実に受身でしかなかった(と、若者には感じられた)彼らの生き方に反発し、集団を厭い、個人主義に憧れ標榜しながらも、一方でそうした自分達の頼りなさを追い詰めていった。
初監督作の『青春の殺人者』では、それなりに豊かになったものの目標を喪失し、子を構うばかりの過干渉な両親を殺してしまった水谷豊を、原田美枝子演ずる、貧乏だけど逞しいヤンキー姉ちゃんな恋人にしっかり相対化させる(貧乏長屋で一升瓶を抱えた、白川和子演じる彼女の母親の描写は生々しかった)。
そして、この映画の最も美しいシーンは、かつてアイスクリーム屋をして生計を立てながら未来を夢見ていた親子の姿を、迷走する水谷豊が浜辺で回想するくだりだ(このシーンも、当時「家族解体」といった過激さばかりを見ようとする映画ファンからは、「お涙頂戴」と批判されたらしいが...)。
そして続く『太陽を盗んだ男』では、 安定した微温的な時代に手応えを感じられず、そんな「死んだ街」を原爆で吹っ飛ばして何が悪い、と言うジュリーに対し、その街を築き上げ、守ってきた世代である菅原文太が「お前が殺していいたった一人の人間は、お前自身だ。お前が本当に殺したがっている人間は、お前自身だ!」と、突きつける。そしてジュリーは、そんな文太との戦いにだけ、生きる手ごたえを感じる。
けれど、過去から現在へと繋がる現実を拒否するゴジの主人公は、必然的に頼りない孤独を抱えたまま、独りで去っていく。そしてその孤独と頼りなさの追い詰め方、引き受け方の「鮮烈さ」という一点にだけ、かろうじてゴジの映画のリアリティーはあった。


しかし、最早共同体や上世代への生々しい反発もなく、「個人」であることを「主義」として、その正しさを主張する必要も無い現在の受け手たちは、「個人」であることに切実な孤独や頼りなさを意識することもない。
彼らにとって、消費社会を前提にした個人主義こそが揺ぎ無く絶対的なもので、私的な自由や欲望を制限しようとするものは、共同体であれ、主義であれ悪なのである。
つまり、かつて体制に対して主張された「個」というのは、現在そのまま疑うべからざる正義になり、そのまま「体制」そのものになってしまった。
しかし、現実が本当に「個人主義」だけで動いているわけもなく、そしてだからこそ現在最大のタブーとは、個人の欲望の「頼りなさ」を自覚することであり、また頼りないからこそ本当は自分も大きな権威や正しさに寄り添いたがっているという事実である。


このことを正確に踏まえない限り、『連合赤軍』にしろ、(それを作るのがゴジだろうが若松孝二だろうが)新しい観客達には自分たちには関係ない、暑苦しくてウザイかつての若者がやった馬鹿、という具合に、すっかり現在の自分たちから切り離されて受け取られるだろう。
そして、映画マニアやシンパたちは、そんなこととは関係なく、「肯定」を前提にした枝葉末節をゴニョゴニョと並べ続けるだけだろう。
そしてそのことを、人それぞれでそれでいい、と当たり前に肯定できてしまうような態度こそが、現在、まず敵とすべきものだと僕は思う。


「豊かさ」にしろ、「正義」にしろ、「主義の達成」にしろ、切実な動機や目標を持つ集団は、個々人の自由や欲得に犠牲を払っても、まずそれを達成しようとするような暴力を孕む。
けれど、それは集団だけが持つ暴力じゃない。
個人が、何かの目標や思いを達成するために、時に端からは自滅と見えるような選ぶようなこともあるように。
例えば、軍隊にしろヤクザしろ(そして国家にしろ)、そうした暴力や危うさを人間観の前提として踏まえ、それが組織そのものを壊してしまわないように、暴力を管理する。
連合赤軍に、そして連合赤軍事件の責任を指導者のルサンチマンや集団の悪に押し付けて、自分たちから切り離し片付けようとした団塊世代やその後の世代に欠け、そして現在もどこか「必要悪」として括弧に括られてしまっているのは、自分の暴力を自覚する責任感と恥じらいなのだ。
そして、この『濡れた〜』がやさぐれ刑事ものやニューアクションの体裁を取っていても、ハードボイルドのカケラも無く、むしろ現在のオタク文化に近い印象を与えるのは、つまりそういうことなのである。

濡れた荒野を走れ [DVD]

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