グラン・トリノ

戦争の地獄と戦時中の息苦しさを潜った結果、「何がどうあろうと、とにかく戦争だけは嫌だ」という、骨がらみの厭戦とある種のリベラリズムを身につけた人たちが、日本にもいる。映画の世界で言えば、例えば池部良岡本喜八殿山泰司といった人たち。
僕は、世界中が帝国主義をやっていた、露骨な喰うか喰われるかの時代の、かつての日本の戦争自体にも、祖国や同胞の為に戦った人たちにも、「一部の理」とか「やむを得なさ」というのはあったと考えているから、彼らの考えに従ってそれを全否定することはできないけれど、それでも彼らの確かな実感と思いを前に、有無の言えない説得力はどうしたって感じる。
だからむしろ現在の、自分が試されることのないリベラルな空間の中で、彼らの言動を自分たちの保証にするようなことは卑怯だと思う。それは、命をかけて同胞のために戦った行為を敗戦後の祖国に裏切られ、沈黙している人たちの気持ちに、ただ乗りすることを恥ずかしいと思うのと同様に。


戦争じゃなくても、まず自分や、自分の身内の幸せを願い、人は行動する。生き延びていくということ、そのものの根っこに、利己や暴力というものが抜きがたくある。直接的な切ったはったを避けて、その方法をどんなに洗練させても、根本のところではそれは変わることはない。日本人の場合、本当に問題なのは、かつての暴力への反省が足りないことではなく、自分自身がその主体であることを意識せずに(つまり、自分がエゴの主体であることを引き受けずに)、その場、その時代の趨勢、空気に染まり、それを自他が乱すこと、それによって互いのエゴが露になることを嫌う、自らの心性に無自覚なことだ(自覚したからと言って、長短込みのそうした体質を簡単に変えられるものでもないし、「変えられる」という過信の中に、また欺瞞が紛れ込むものだが)。 
が、どちらにせよ、人は自分達のエゴや暴力を(つまり自分たちの運命を)完全に制御したり、逆にきっぱりと居直ったりできるほど、強くはない。答えの出ない、まとめることなど出来ない後ろめたさや後悔を、心の底で多くの人が抱えているはずだし、だからこそそれには容易く触れられない。分かりやすい答えや建前、伝統や習慣といった「生きる形」を必要ともする。
テレビやマカロニウエスタンといった、B級娯楽映画の世界でキャリアをスタートしたイーストウッドは、女子供になじられようとも、暴力を黙って引き受ける男を、ヒロイックに演じてきた。『ダーティハリー』は、人の弱さや現実の醜悪をリアルに露出させることに価値が求められたニューシネマの時代に、法で裁けぬ悪に対して敢然と暴力を引き受ける男をヒロイックに描いて、リベラルインテリの反発と大衆的な支持を獲得した。
その後も彼は、こうしたヒーローを演じ続けたが、加齢と共に、暴力的な世界を生きざるを得ない、あるいは暴力を根本に抱えた人間として生きざるを得ない人間の理不尽(に向きあう男)を描く方へと、重心を移していく。ただ、そこはやはりヒーローだから、露骨に落ち度がある駄目なヤツ、問題のあるヤツに主観を込めることはない。愚かな人間を描くときにはどこか概念的、俯瞰的であり、それに深く苦悩するイーストウッドの視線が対置される。その結果最近の彼の映画には、「人の世の理不尽を重厚に描くこと」が自己目的化したような重ったるさと、もったいぶったナルシズムのようなものがいつも付きまとっていて、正直、僕は苦手だった。誰も突っ込みようのない悲劇なんて、なんだか恰好よすぎるし、嘘だろう。そんなものを手放しで礼賛してるヤツらこそイヤラシイって反発と違和感の方が強かった。


新人脚本家の力も大きいのだと思うが、この映画では、そうした最近の(僕の思う)彼の欠点が、コミカルで可愛い作劇によって、うまく回避されていた。それだけでなく『グラン・トリノ』は、イーストウッドが久しぶりに作り、演じた、王道の娯楽映画だと僕は思う。
かつて自分が信じ、愛した町が、まったく別のものに変質してしまった現在を生きる、偏見に凝り固まった意固地なじいさん。けれど、「偏屈で意固地」だからこそ、僕らおっさんには愛せるし、安心もできる(むしろ、普通に心優しい硬骨のヒーローぶりを見て、公開前そこだけを大袈裟に強調する発言が目立ってたことに、「この程度で?」と、今の世の中の潔癖症的な窮屈さを感じた)。もともと人種偏見の強い彼が、隣人の黄色人種に友情を感じていくプロセスは、リアリズムで考えれば余りにも簡単すぎるだろうし、ホワイトマイノリティの親父同士の、差別用語がたっぷり入った挨拶のような罵りあいも、彼らの本質的な善良さを若者やリベラリストに知らせようとするかのように優しく、軽快でコミカルだ。一方、彼の若い友人を脅かすギャングたちは、まさにステレオタイプの無法者。
でも、それでいいのだ。これは娯楽映画なのだから。ただ、娯楽映画だからと言って、肝心なところで嘘をつかれると「下品な子供だまし」「空々しいきれいごと」と興ざめするが、この映画でのイーストウッドは「世界は根本的には暴力的だし、生きることは厳しい」という認識を貫いているという一点で、嘘はついていないと思う。無骨で実直な庶民のアルチザンシップを、そこだけはどんな人種、世代にだって普遍的に通じるはずだと信じ、細やかに見せた上で、最後にはまさに、映画だからこそできる出口を用意する。
この結末を、暴力に暴力で立ち向かってきたイーストウッドの贖罪だとか、最後は法に裁きをゆだねる倫理を示したといった見方も多いようだけど、最初に書いた戦争体験者への見方と同様、僕はそうは思わない(逆に、最終的には白人である自分をヒロイックに描くところがイーストウッドの限界だといった、薄っぺらな政治的正しさを振りかざすような意見にも疑問を感じる。少なくとも僕自身は、白人男性自身の、自分の立場を踏まえた骨がらみの肉声だからこそ、それに思い入れることができた)。
完全な、正しく公平な法なんてありえない。法はいつも、狡猾な者にとっては便利な穴だらけで、善良なトロ助に対しては壁となって立ち塞がる。だからこそ熟考し、尚且つ身を張った彼の行為が英雄的に輝く。70年代的な暴力や復讐のステロタイプよりも、更に困難なことだからこそ。
この映画が、現在一般に対する万能の答えを描いているわけではないし、誰にもできることじゃないからこそ、主人公の行為は感動的だ。言い方を変えれば、この状況を、すれ違いと暴力の連鎖として描くことよりも、こうした形で気持ちのいい娯楽映画に仕立てることの方が、実はずっと困難なことだったと思う。それを可能にしたこの映画の存在自体が、困難で先行き不透明な現実を生きていく勇気を、僕らに与えてくれる。


ちなみに、『グラン・トリノ』を観ていて、僕が真っ先に思い出したのがこの映画。
未見の方は、是非。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20070209#p1

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