町山×宇多丸『ハートロッカー』論争と、『息もできない』


昨日の日記http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20100404で紹介した松田尚之さんhttp://d.hatena.ne.jp/border68/と、その後mixiのコメント欄でやり取りを続けていたところ、『息もできない』そのものから話が膨らんで、常々自分が漠然と感じていた昨今の映画批評、或いは社会批評に対する根本的な違和感が、かなり鮮明に言葉になった気がする。
松田さんの許可を得て、ここに転載します。

(松田)
あえて書かなかったんですが、やはり「竜二」を思い出してしまうところがありますよね。
私は竜二原理主義者なんですけど、あの作品独特のナルな感じ(にとれるもの。男の手前勝手の美学?)は激しい反発、嫌悪、嘲笑の対象になることもあるのだということを、映画好きの友人たちとの会話で痛感することも何度かありました(ショーケンの主題歌含め)。
私からすると、ヤン・イクチュンも、金子正次も、自分の感覚、生理をそのまま表に出したらああなっちゃっただけで、「こう描くことで世の中に一発かましてやろう」というような野心というか計算というか、それは副次的なものだったのかなと勝手に解釈しています。
映画作家としてみれば、デビュー作だけに許される特権的な押し出しなのかもしれないですけれども。
私がシネマライズに行ったのは平日昼間でしたが、8割がた入っていたので、これからもいろんな人の感想が出てくるんじゃないかと思います。
宇多丸ラジオでも次回取り上げるみたいですね。
余談ですが教えてもらった「ハートロッカー」に関する町山vs宇多丸も面白かったです。
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20100327_podcast_1.mp3
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20100327_podcast_2.mp3
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20100327_satlab_3.mp3
(いずれもhttp://www.tbsradio.jp/utamaru/podcast/index.htmlより)
町山さんそんなこと考えてる人だったんだ、そんな手の内正直に言う人なんだ、というところだけでも聴けて良かったと思いました。
描かれていない部分、意識的にか無意識にか作者が隠蔽(ってことばがあたるかどうかわからんですが)してる部分から町山さんなり宇多丸さんなりが「息もできない」を語ったらどうなるのか、聞いてみたい気もしました。

(河田)
>私からすると、ヤン・イクチュンも、金子正次も、
>自分の感覚、生理をそのまま表に出したらああなっちゃっただけで、

ここなんですよね!
自分が感想見て回っていて気になったのが、この作品が父性原理を否定しているとか、(ラストに描かれる)父親抜きの疑似家族をそれに対置しているってふうな見方が(主に頭の良いタイプの人に)かなり多いことなんです。

竜二と違って息もできないには、確かに内にわだかまった出口のない思いや、それを生んでいるものの一端を、分かりやすく伝えたい、描きたいという姿勢はあったと思う。
だから、家族や父親の負の側面に傷ついている人間の思いや葛藤は描かれているけれど、それをそんなイデオロギー的な主張に纏めたり、打ち出してなどいない。
最後の焼肉屋のシーンだって、傷を負った孤独な人間が、肩を寄せ合っているだけ。それに自分が印象的だったのは、あれだけ家族に傷ついているサンフンも父親も、それでも地獄が待っている家に毎日帰ってくることでした(玄関の前で、サンフンが自分を鎮めるように煙草を吸っているシーンも心に残った)。それが良いとか悪いとかではなくて(現実には、閉ざされた関係に出口があった方が良いに決まっているけれど)、そういう抜き差しならない繋がりの中でこそ、このドラマは生まれているということ。

僕は竜二の思いとサンフンの思いを、正否や優劣で見たりはしないし、ただ確かにここにある現実と強い思いを刻むことに、良いも悪いもないと思う。
ただ、この映画が(これも単純に良い悪いじゃなく)一見泥臭く暴力的なようで、実は根本はとても前向きな健康さに貫かれていることは確かで、驚いたり絶賛したりする人たちから、そこへの指摘や考察がまったく出てこないことに、僕は日本の観客の現実が映画と遠く隔たっていることを感じるし、そこから出てくる上のような(半端な知識ありきの)記号的な構造解釈に、どうしても苛立ちを感じてしまいます。

「ハートロッカー」論争は、町山さんの一番良い所と悪い所がモロに露出していて面白かった(ちょっと前に、ツイッターの方でも色々感想つぶやいてます)。
町山さんは、どこかディティールを積み重ねていけば客観的な事実にたどり着けるという信仰を持っていて、「事実をそのままに見る」ということを凄く強調されるんだけど、実は町山さんの論を根本で強烈に印象付けるものって、彼の烈しいものごとへの共感(あるいは反発)の角度だったりもする。
そこで「思い」と「客観的な正しさ」を、理詰めで強引に結びつけてしまうところに、彼のヤバさがあると自分は常々感じています。
(統計データという「事実の1側面」を並べて、自分の主張を「客観的真実」であるかのように粉飾しようとする、若手の社会学者達の態度等とも、どこか通じているところがあると思う)

反面、宇多丸氏はもっとずっとフラットというか優等生的なんだけど、その分実は無難でリベラルな見方を、個人的な実感でひっくり返すようなリアリティに乏しい。
なので正直、『息もできない』については、所謂映画ファンにとっての公式見解以上のものが出て来なそうな気がしています。
この予断を、是非覆して欲しいところ。

(松田)
「町山さんは、最初イデオロギー抜きでフラットに表層批評しようぜ、このディテールはこう読むしかないじゃないって積み上げていって、でも最後の最後になると、「『俺は』こう読む!!! これしかねーだろ???」がドーンと出てくるのが卑怯だけど面白いです。やっぱり。語り芸として。
でもたしかにヤバいですよねー。
町山さんはアクが強いから、聞く側も一定警戒してつきあえるけど、コンサル的エリート(と私は呼びたい)は、もっとスマートにこの手を使ってくるからなー。
人文知(アート)の役割は、社会科学(サイエンス)に「いやいやあんたたちはそうはいうけどさ……」とへそを曲げるところにあるのかもしれないですね。
だとすると映画をあんまり記号的に分析するのもどうかなというのはあるです、やはり。
いまのネット上の感想は、ある意味「なんじゃこりゃ、すげー」みたいなもんで、それはそれで素直な反応かもしれないですけど。

町山さんと以前から絡んでいる宇多丸さんも、たぶんそういう「町山ねじれ」の構造はうすうすわかっているんだと思うんですが、そこはあえて否定的に指摘しないのか、それこそ無意識的に町山さん的なものへの劣等コンプレックスがあるのか。
まあ私も根っこは宇多丸的草食優等生ですから、彼が押されに押されて行く過程も息詰まる感じで聞いておりました。

五郎さんがいう「この作品と日本の観客の遠さ」の話、

>「あなた方とあの二人は、もう何の関係もない」。この距離を、もっと厳粛に受け止めるべきではないかと。
>僕たちは今、「距離」や「暴力」を乗り越えるということを、交通標語か試験の模範解答か何かのように、安直に考え過ぎていると思う。

これは私自身のこととして、わきまえ認識しなければと強く感じます。
たぶんこれを指摘されてなかったら、私もこの作品の強度にひっぱられ巻き込まれて、消費して終わっていたかもしれない。

自分でいうとものすごく嫌味で恥をさらすようですが、私はけっこう「共感的な人間」の「つもり」です。
それは生育歴の中でいわゆる「リベラルなものの見方」を刷り込まれてきた、親、教師、友人、書籍等を通じて伝えられてきた(それ自身はありがたいことだったと思っていますが)影響が大きいと思う。
ただその「共感性の高さ」とか「リベラルイデオロギー」は現実生活の中で検証されて鍛えられたものじゃないから、ひじょうにふわふわと実体のないものでしかない。
何か壁にぶつかればあっさり転向もしそうだし、それ以前にすでにいまの私の生活を「表層批評的に」見て言ったら、「言ってることとやってることがぜんぜん」違うミクロな現象ばかりなわけで。
そこを見て見ぬふりをするでもなく、転向にひらきなおるでもなく、なんとかしないといけないんですけれども。
自分の人生のために他人を利用するのは嫌だし恥じるべきかもしれないんですが、いまの(これまでの)自分の生活圏から「遠い」人、「距離や壁」がある人、それこそ五郎さんのいう(本来)「何の関係もない人」に少し接近し、かかわりを求め、節度をもってつきあう作業を、少しずつでもしていく(できれば仕事にからめて)ことができたらとも思うのですが。
これ自体が本当に「言うだけ番長」になってまして。。。

(河田)
難しいですね…

僕自身もタイプは違うけれど、実は結構町山さん的なアクの強い部分を持った人間だと思うんですが(苦笑)、そうした個人的な実感を「マイノリティ」とか「社会正義」って立場に結び付ける志向の強さに、どうしても抵抗を感じてしまう。
僕は自分を少数「派」だとは思っていないから。

だから、

>人文知(アート)の役割は、社会科学(サイエンス)に「いやいや
>あんたたちはそうはいうけどさ……」とへそを曲げるところにある
>のかもしれないですね。

ここのところははっきりと、声を大にして言っていかなきゃまずいと思ってます。
ただ同時に、この立場って社会的に建設的、前向きな提言が出来にくい。
僕自身「この苦しさから抜け出したい」「ここをもっと良く変えたい」という思いから、物を書く作業をスタートしてる人間なので、ここの踏ん切りがつかなくて、中途半端なことになってる気がします。

ブログでの僕の発言も、松田さんのような善意の人に(流れ弾として)命中してしまうのが、どうにももどかしい。
「関係ない」と言っても、それは「関わろうとする人間」の持っておくべき節度の話であって、はじめから関係ないで済ませてればいいって話じゃない。
距離を意識しながら、理解できない部分、容認できない部分も含めて、どう直視していくかという話だから、まず向き合ってみなければはじまらない。
「エリートコンサル的知識人」の話と同じで、今は右とか左とか関係なく、そういう「弱さ」は誰もが抱えているし、だからこそ慎重に自覚し、(性急にではなく)努力していくべき事だと思います(善意の人に対する「わかっていない」「わかれ!」という脅迫は、また連赤的な袋小路に行きつくだけだし、それこそ頭でっかちな「わかってる」競走になることはもっと不毛だから)。